監督のその指示の意図を汲み取れる選手

先日、練習試合が行われた。
その中で非常に重要なプレーがあった。

5-2で迎えた3回、1アウト3塁の場面だった。
監督は前進守備シフトをしかず、後ろで守るように指示した。
この指示は、つまり、点数をあげても良いが、代わりにアウトカウントを取らないといけないという意図が含まれていた。

さて、カウント2-1からの4球目、低めのワンバウンドに手を出した打者。
空振り三振かと思いきや、捕手は2,3メートル後方へ捕逸、振り逃げの形となった。
その時、捕手は3塁ランナーを意識するあまり、1塁への送球をし損ねてしまった…

守備位置の指示ひとつから意図を汲み取っていたならば、即座に1塁へ送球し、先にアウトカウントを取っただろう…

指示を受け取る選手たちは、その指示通りに動くことを求められるが、決してロボットではないことを忘れてはならない。
その指示の意図は何なのか、汲み取って指示を遂行してこそ一流の選手と言えるだろう。

非常に重要なプレーと表現した理由はこのことだ。
指示の意図を汲み取れる選手であるかどうかを見極めるプレーだったからだ。

野球に限らず、社会生活においても同じことが言えると思う。
何らかの指示を受けたとき、その指示を順守することはできても、その意図するところを考え、汲み取って動くことはなかなか難しい。
しかし意図を汲み取るところまで出来るかどうかによって、自分が指示を出す側に回った時に最善の判断・選択ができるようになる。

また、信仰生活においても同じことが言える。
同じく神様の御言葉を見聞きしても、その意図・言わんとすることを正確に汲み取らないと大失敗をすることになる。
神様の歴史を見てみても、神様の御言葉をしっかりと聞かず、聞き従わずに失敗している。
アダムとエバやヨシア王がその代表例だ。

野球の監督の指示しかり、会社の社長の指示しかり、神様の御言葉しかり…

意図を汲み取ることのできる選手になれるように続けて教えていきたいと思う。

必ず経なければならない道

ひとつの分野で成功しようとするならば物凄い量の努力が必要だ。
特に運動という世界では本当にそうだ。

人々はある運動選手を見て「持って生まれた才能だ」と言うが、彼の努力する姿を見てないがゆえにそのような言葉が出てくる。

努力という単語の深い意味を知らなければならない。
同じく‘努力’と言うが、努力をたくさんしたことのある人が使う‘努力’と努力をあまりしたことのない人が使う‘努力’とでは完全に異なる意味がその‘努力’の中にあるだろう。
各分野ごとに成功した人たちの生き様の中に入ってみなければ、その深い‘努力’の意味を知ることはできない。

人々は努力が必要だということは分かっている。
しかし、しんどいことを避けたい心のゆえに、努力を惜しむ。
努力というものは目的地まで行くときに経なければならない道であるにも関わらず楽な他の道を探す。
高速道路に入るためには料金所を経なけらばならないように、自分がしたいことには必ず経なければならないことがある。
いくら自分がしたいことだとしてもその中には避けることのできないしんどいことがある。

野球の練習においては、バッティングやピッチングなどの技術練習だけをやって一流の野球選手になれるわけではない。
しんどい体力トレーニングを経なければ相手と戦って勝つことのできる力を身に付けることはできない。
体力トレーニングは本当にしんどい。
避けたい。
しかし、体力トレーニングを経なければ力負けする。
自分の身体を作ることが技術練習のように重要だ。
必ず経なければならない過程だということを分かって、決して避けることなく、体力トレーニングに果敢に取り組まなければならない。
そうして体力トレーニングを経た選手は本当に強い。

誰も助けてくれる人はいない。
自分が努力しなければならない。
これが必ず経なければならない道だ。

スポーツ・野球における勝利と楽しさとの狭間に立つ

最近、野球をしながら多くの葛藤と戦っている。
特に、タイトルにもある通り、勝利と楽しさという2つの狭間に立ちながら、一体自分は何を求め、何を成そうとしているのか?と自問自答を繰り返している。

あるオリンピック選手がこのようなコメントを取材の中で出していた。
「(スポーツは)本来は楽しいもの。でも勝つためには楽しめない。」
この複雑な心情に非常に共感できる。

スポーツには勝ち負けが伴う。
勝ち負けにこだわるからこそ、最高のパフォーマンスが生まれる。
勝か負けるかの一本勝負の場面においては、人智を完全に超えた世界で繰り広げられるパフォーマンスを目の当たりにする。

時に、スポーツにおいて勝ち負けにこだわるあまり、苦痛が伴う場合がある。
苦しみ悶えながら苦境を乗り越えて勝つ場合もあれば負ける場合もある。
楽しさとはかけ離れたスポーツの一面に直面することになるわけだ。

 

ここで、楽しいという普段何気なく使っている単語を深堀してみることにする。
「楽しい」とは手を伸ばして喜び舞うことから「手伸舞(たのしまう)」や「手伸し(たのし)」が語源とされているらしい。(参照:語源由来辞典
?!
スポーツで勝利したときに手を伸ばして喜び舞うのではないだろうか?!

正直、過程の中では手を伸ばして喜び舞うことはできないだろう…
しかし、勝ち負けにこだわること、勝利を目指してスポーツをすることが、本当の意味での「楽しさ」の追求なのではないだろうか?

選手たちには至極の楽しさを味わってほしいと思う。
これまで様々な勝ち・負けを繰り返してきたが、頂点に立った時の「楽しさ」は頂点に立った者しか味わうことができない。

まだまだ指導者として成長過程にある私が今のところ辿り着いた答えを共有したく綴った。