練習すること、努力することについて

夢や目標に向かって日々練習している野球選手たちが多くいる。
それぞれに一生懸命に努力していると思うが、今一度「努力」するということがどういうことなのかについて考えてみてはどうだろうか。
同じく「練習」、「努力」という単語を用いるにしても、その中身がどのような、どの程度のモノなのかは、使う人によってそれぞれだ。
よく検討してみる必要があると思う。

練習するときは試合の何倍もしないといけません。
練習をしなければできません。
実戦のように最善を尽くさなければなりません。
<チョンミョンソク牧師『平和サッカー』(p.199)より>

練習で実戦(=試合)のように最善を尽くしている選手がどれくらいいるだろうか?
少しでも妥協していないだろうか?
練習から最善を尽くすことを繰り返していれば上手くなるだろう。

 

一度でできることはありません。
私もボールをこのように蹴れるようになったのは最初からできたのではありません。
最初からよく蹴れたのではなく、数百、数千回練習をして、このようになったのです。
何でも継続すればよくできるようになります。
上手くできる時までしなければならないということです。
<チョンミョンソク牧師『平和サッカー』(p.199)より>

1回や2回、あるいは数十回やったのではできないことが大半。
数百回、数千回練習を繰り返すことを努力というだろう。
また、努力というものは「できる時まで」するものだ。

 

2つのチョンミョンソク牧師の言葉を聞いて、
私自身、野球コーチとしてまだまだ取り組む姿勢が甘かったことを痛感する。
練習から最善を尽くして「できる時まで」やることをしっかりと胸に刻みたい。

勝利至上主義/勝利追求主義/勝利感動主義

先日、ある少年団の野球チームでの出来事を耳にした。

練習試合での出来事。
試合は同点で最終回を迎えた。
表は点が入らず裏の攻撃となった。
1アウトランナー3塁で一打サヨナラの場面!

ここで読者の皆様が監督ならばどのようにするだろうか?
私ならばサインは出さず、打たせると思うのだが…

実際の出来事は…
「スクイズ」をしたのだった!
サヨナラスクイズで勝ったのだった。

私はこの出来事に驚きを隠せなかった。

どのような方針でチームを運営しているかによって、その都度試合場面においても(練習試合であろうとも)採る行動が変わってくる。
例えば、今日の練習試合では何が何でも勝つ!と言って試合に臨んでいた場合、その目標・目的を達成する手段として最善の策を採るのは当然である。
勝つことが全てだとは思わなくても、勝つことを追求する姿勢から、練習試合のサヨナラの場面でスクイズは有りだろう。

これは私個人の持論であるが、勝つことが全てだという勝利至上主義は危険をはらんでいる。しかし、最近は、勝つことをすべてだとは思わないが、勝ち負けを決めるスポーツの特性上、勝ちを追い求めるという姿勢はあって然るべきであり、勝つことにこだわる中でも面白さ・楽しさを失わないようにしていく勝利追求主義を主張する人たちが増えてきた。
ここから私はさらにコマを進めて、勝利感動主義を唱えてみたい。
(これは私個人が作り出した言葉であり、私個人の見解であるということをご了承いただき、先を読み進めて頂ければ幸いです。)

私が練習試合でのサヨナラバントという出来事を聞いて驚いた理由は、「勝ち方」についてである。
私はバントは否定しない。
打たせるよりも、バントの方が点を取って勝てる確率が高いとなればバントが選択肢になっても良いとも思う。
しかし、それまでの過程の中でスクイズバントで試合を決めてやるぞと毎日毎日命を懸けて練習してきただろうか?
大事な場面で1本を打とう!と思って日々日々努力してきたのではなかったか?

勝利に「感動」という軸を一つ入れてあげることで、スポーツの持つ可能性が大きく広がって来るように思う。
勝っても感動が起こらなかったら残念ではないだろうか?
勝ちに行くが、対戦相手も、見ている人も、感動を呼び起こすような勝ち方を目指したいものである。
そして、神様に栄光を帰し、神様に感動を与える勝利・スポーツの在り方を目指したいものである。

【野球の指導者必見】不貞腐れた(ふてくされた)選手たちをどのように指導したら良いか?

初めに、「不貞腐れる(ふてくされる)」とは、「不平・不満の気持ちがあって、なげやりな態度や反抗的な態度をする。ふてくさる。」と『デジタル大辞泉』にはある。
この意味を正確に理解した上で読み進めて頂けたら幸いである。

 

さて、野球の指導者をやっている方々は一度はこのような問題に直面したことがあるだろう。
不貞腐れた選手たちを一体どのように指導したら良いのだろうか?と…

私はバッティング練習にてバッティングピッチャーをよく勤める。
選手同士で投げさせても良いのだが、嫌々やる場合も多く、ストライクが入らないと互いに気分を害してしまいがちだからだ。
コーチの私がその役割を買って出るのだが、私も人間、100%ストライクを投げられるわけではないし、たまにボール球が先行することもある。
そんな時、選手たちの反応は各々なのだが…
不貞腐れた選手たちの反応はというと…
言葉では言い表せないほど気分が悪くなる…
打席に入るのをためらい、打席の後ろで愚痴を言い、ボールになると舌打ちをし、打ち終わっても頭も下げない…
そうなると、余計にバッティングボールを投げづらくなる…

先日、私は限界に達した。
こんな選手たちには何も教えたくない…
当然バッティングボールも投げたくない…
何なら指導料を頂かなくても問題無いので辞めたい…
久しぶりに憎しみのような感情までも込み上げてきそうだった…

私は毎日「選手を上手く指導できるように力をください」と神様にお祈りし続けていた。
もう限界だと思ったその瞬間、一つの強い霊感が来た。
「愛しなさい」
衝撃を受けた。
不貞腐れた彼らを「愛しなさい」というのだから…
チョンミョンソク牧師がベトナム戦争に参戦されて、敵と銃を向け合ったその瞬間に神様から「愛しなさい」と啓示を受けた経緯を瞬時に悟った。
そうして彼らを見ると、物凄く愛おしく感じられた。
彼らも野球が好きで、頑張っているんじゃないか。
至らないところもあるかもしれない、気に食わないこともあるかもしれない、でも同じく野球が好きで、野球の中で何とか自分を表現しようともがいている同志ではないか。
外見や好き嫌い、感情で接してはいけない。
分け隔てなく、みな同じく接しよう。
そう悟られた。

マタイによる福音書5章45節
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

これが神様の精神、聖書の教えである。
彼らがどう私に接するかは関係がない。
私が彼らにどう接するかは絶対にぶれてはいけない。
不貞腐れた(ふてくされた)選手たちをどのように指導したら良いか?という題の答えはこれだ!
分け隔てなく接すること。
ここに指導者の力量・器の大きさを見て取ることができるだろう。