野球は9回2アウトから。人生はもうダメだと思ったときから。

韓国のとある弁護士の話。
彼は高校2年生まで野球をしていたが自身の実力に限界を感じて引退を決意する。
しかしその時の学校での勉強の成績は1700人くらいの中でワースト10に入るほど。
そんな状況の中でも、決心をして、勉強に専念することに!
その後、弁護士になり、ご自身の経験を元に啓発本を書き上げるまでになった。

彼は自身の人生を通して、
「自分もどん底と言えるような状況から努力することで成功することができたのだから、あなたたちもできる」と希望のメッセージを伝えてくれている。

ca5f86877b342fc2f8f8479e6252294b_s

さて、野球には「野球は9回2アウトから」という言葉がある。
この言葉は「たとえ9回2アウトまで負けていたとしても逆転することができる、あきらめるな!」ということであるし、
また「たとえ9回2アウトまで勝っていたとしても逆転負けすることもありうる、気をゆるめるな!」ということである。

私の個人的な考えであるが、
野球の一番の面白いところは、この9回2アウトという試合がもうすでに終わったと言えるような場面であっても何が起こるかわからない、逆転劇があり得るところだと思う。
言葉を少し変えるならば、万事休すと言えるような状況だとしても「覆す」ことのできるスポーツだから面白い!

20161205_ja
<行ない>によって、うまくいかなかったことを覆して成功することもある。

これは野球に限ったことではなく、
人生においても全く同じだと思う。

野球でいう9回2アウトのような、もうダメだと思ってあきらめたくなるような状況であったとしても、
チョンミョンソク牧師の言葉にあるように<行ない>によって「覆し」て成功することが可能だと思う。

これまでやってきたことがダメだと思えても、
他の道に行こうと思ったが現状行く先真っ暗だとしても、
<行ない>が「覆す」カギであるということは真理だ!

「行なおう、行なおう」
そう何度も自分に言い聞かせて<行ない>で状況を「覆す」!

そうやってこれから私自身人生を歩んでいきたい!

また、この記事を読んでくださった方も何かダメだと思い、あきらめたくなるような状況があるならば、チョンミョンソク牧師のヒトコトを力に前に進んでくだされば幸いである。

雨天決行!教会ソフトボール大会

先日、教会でソフトボール大会をしました。
台風の影響で雨が降っている状況でしたが決行しました!

企画当初、2チームできるくらいが集まれば良いと考えていましたが、参加者を募ってみると、想定の倍以上の方が参加したいと手を上げてくださいました。
大人数をどのように動かしていったらよいのか、嬉しい悩みを抱えながら、企画に関わった教会の野球部員たちは「みんなが楽しめるようにすること(by.チョンミョンソク牧師)」を第一目標とし、教会に奉仕する心でプログラムを構築しました。

教会に通う方々の中には野球・ソフトボールに全く触れたことがない方々もいらっしゃいます。
普段接することのないボール・バット・グローブを手に取り、多様なスポーツ文化の1つに触れる機会を作ることそれ自体に物凄く大きな価値があり、甲斐があることだと感じます。

老若男女問わず、多くの方々と一つの空間で一つのことをやる場を設けることは易しいことではありません。
しかし、スポーツ(今回はソフトボール)がその役割を担ってくれます。
世代間で交流する場を作り上げることのできるスポーツそのものの価値もまた感じた機会となりました。

さて、チョンミョンソク牧師は行事に共になさる神様だ、と教えてくださいました。
今回のソフトボール大会でも神様が共にしてくださったことを見て経験したため、ここに記録して残したいと思います。
事前準備の段階で、老若男女が共に参加するということで、「絶対に事故・ケガがないようにしてください」と21日間、神様にお祈りをしました。
そのお祈りの通り、無事に事故・ケガなくソフトボール大会を終えることができたのですが…
実は、非常に危険な出来事がありました。
(当日、雨の中、ボールやバットが滑りやすい状態にありました。)
試合の合間に待ち時間を無駄にしないために、バッティング練習(Tバッティング)を外野のファールグラウンドで行なっていたのですが…
思い切り振ったバットが手を離れて飛んでいきました…
バットは遠く離れて見ていた人の方へ…
幸いにもバットはその人の頭上を通過…
神様が守ってくださいました…

もちろん、打つ時、投げる時には近くに人がいないように注意を払っていました。
事故を起こそうと思う人はいません。
不意に起こるものです。
未然に防ぐために万全な備えをしていても、想像を超えたことが起こるものです…
だから神様が守ってくださらなければ完全に防ぐことは不可能だと私は考えます。
今回の件も、間違いなく、神様が守ってくださいました…アーメン。

終わりに、雨に降られながらも、今回参加した方々が笑顔で帰って行かれる姿を見ました。
その笑顔が今回の教会ソフトボール大会の成果の象徴だったと思います。
いつも「天には栄光、地には平和」という聖書の御言葉をテーマに掲げていますが、平和なところには笑顔があるでしょう。

私たちキリスト教福音宣教会の野球部は「自分の栄光を求める」ことはありません。
いつも神様が喜ばれる行ないをすること、これは野球・ソフトボールをする時にも変わらない姿勢です。
天には栄光となるプレー・行動言動を心掛けることで、地に平和を成していけるよう、今後も努力したいと思います。

甲子園球場100周年

1924年、今から100年前に甲子園球場は完成しました。
甲子園球場は野球人たちにとって「聖地」と呼ばれるほどに特別な場所として知られています。
私も約20年ほど前に聖地を目指して日々努力した身ですが、その場所に足を運ぶと今でも当時の記憶が鮮明に蘇ってきます。

先日、甲子園球場に夏の高校野球を見るために足を運ぶ機会がありました。
甲子園球場でプレーする高校球児たちの姿はいつ見ても感動を呼ぶものがあります。

実は、昨年も足を運んだのですが、今年はひと味違う視点を持って見ることができました。

まず、高校球児たちのプレーについてです。
そのプレー一つひとつがどのような過程を経て生まれるようになったのか、その背景に注目しました。
数万の練習の過程を経て生まれたプレーは芸術という表現がピッタリなほどに美しく見えました。
どれほど練習を積めば物凄い観客と猛暑の中でそのようなプレーをすることができるでしょうか?
今週の御言葉、条件対価という話が出ましたが、やはりタダはなく、練習という条件を積んだ対価としてそのようなプレーを得たのだということを確信しました。

また、監督の役割についてです。
監督は選手の代わりにプレーしてあげることはできません。
練習の中で手取り足取り教えることはできますが、試合中は選手がやるしかありません。
最終的には選手がどうするのか、その責任が大きいということです。
神様も同様に、人間に責任分担をお与えになり、神様が御言葉はしてくださるけれども、人間がどうするのか、その責任が大きいということを深く知るに至りました。

その他にも多くの信仰のことを野球を通して学び知ることができることを私は強調したいです。

さて、甲子園球場は100年という歴史を刻みました。
その100年の歴史の中で様々なストーリーが生まれました。
100年という歳月は人間の人生を考えると非常に長い時間です。
100年という歳月であってもいまいちピンと来ないのに、神様の宗教歴史6000年と言われてしまうと余計にピンと来ない人たちが多いかもしれません。
しかし、歴史は確かに存在した事実です。
その歴史の事実に目を向け、その先代たちが築き上げて来たモノを今の自分たちの人生に活かすことが非常に大切です。
甲子園球場の歴史、そして神様の歴史、歴史という大きな遺産を存分に活かす人生を送りたいと思います。

「良心」の生きた野球少年たち

先日、娘・息子を連れて公園に出掛けました。
その公園は、今はもう使われていない駅舎をそのまま残し、周辺に遊具と芝生を引いて広々と遊べる趣深い場です。
駐車場も広く、学校終わりや休日にはたくさんの子どもたちが集う場ともなっています。

そのような公園にプラスチックのバットとソフトテニスボールを使って野球をする野球少年たちがいました。
(ボール遊びを禁止する公園が多いですが、その公園は禁止していませんでした。)
私は、彼らの姿を見ながら、「比較的安全なバットとボールを使用しているならば多少人が多くても安全面には問題なく大丈夫だろう、なかなか野球をする場所がないだろうから広い公園で野球遊びができて楽しいだろうな~」と思っていました。

さて、野球少年たちの様子を続けて見ていたのですが、ピッチャーの子が良いボールを投げていたのでバッターの子がなかなか打てていませんでした。
そうして、バッターの子は少し嫌気が差したのか、ノックを打つように自分でトスをあげて、思い切りスイングをしました。
ジャストミートし、打ったボールはとてもキレイな放物線を描き飛んでいきました。
ボールは駅舎の屋根を越え、駐車場の方へ…
次の瞬間…
「ボン」
ボールが駐車場に止まっていた車のボンネットに直撃してしまいました。
瞬間、子どもたちはヤバいと言って身を隠しました。
ボールが直撃した車にはたまたま持ち主のおじさんが乗っていて、何かが当たったことに気が付いて車から降りて来ました。
おじさんは周囲を見渡しながら車を細かくチェックしていました。

私はその状況を注視していました。
野球少年たちは身を隠した後、どこかへ行ってしまいました。
周囲を見渡してみると、その現場から少し離れた所で彼らの姿を発見しました。
その時、私は正直に謝るようにと野球少年たちを教育しようかと思いましたが、彼らの話に耳を傾けてみると、謝りに行こうと言って相談しているようでした。

10分ほど経過した後、野球少年たちは重い足取りで車の持ち主のおじさんのところへ向かいました。
そして、正直に自分たちが車にボールを当ててしまったことを謝っていました。
その車はピカピカでおじさんは相当車を大切にしているようでした。
私は、その子たちの親に電話して何やら弁償でもしてもらわないと困るとでも言うのかもしれない、と思いました。
しかし実際には、野球少年たちが正直に言って来たことと、ボールが柔らかいソフトテニスボールだったことでそれなら大丈夫だと言ってくれたそうです。
「あのおじさんめっちゃ優しくて良かった~」と言いながらこちらの方へ歩いてきました。

この写真はイメージです。

この一件を見ながら、私自身の心と行ないを省みました。
果たして、正直な心、素直な心、生きた良心を持って生きられているのか…

マタイによる福音書18章3節
「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。

野球少年たちのように生きた良心を持って生きていきたいものです。

チョンミョンソク牧師は10代の時、鏡を見ていて不細工だと思い、見ていた鏡を割ったそうです。
その時、「顔が問題ではない。心が醜ければ顔が醜く見える。」とイエス様から教えてもらい、一層心をよくつくったのだと話してくださいました。
(参考:2024.5.19主日の御言葉「心の畑を肥沃な畑につくりなさい」)

自分の心を磨き、心身ともによくつくっていくことができるよう一層努力していこうと思います!