回想~乱行から抜け出した今思うこと~

昨日から今日にかけて、久しぶりにゆっくりと自分と向き合う時間を頂いた。
母校を訪れ、また、聖書を手に取り、自分の人生を振り返る時間を持ちながらこの文章を綴っている。

聖書の読み進めていた箇所『ぺテロの第一の手紙』にはこのようなことが書いてある。

ぺテロの第一の手紙4章3~4節
過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。
今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。

私は深く共感したり感銘を受けたりした聖書の御言葉の箇所に蛍光ペンでしるしをしておくのだが、この箇所にもやはりこの箇所にも蛍光ペンのしるしがしてある。
何度読み返しても、この聖書の御言葉の主人公になったのだなぁと感じるしかない。

「酒もやらん、タバコも吸わん、ギャンブルもせん、何を楽しみにして生きているん?」
つい最近も私の生活を驚き、怪しみ、罵られることがあった。

私は、この聖書の御言葉の通り、そのような乱行には加わらないことを決めて早10年の歳月が過ぎた。
私の最近の人生の楽しみは、妻が作ってくれたお弁当を食べることと授かった子どもたちの成長を見守ること、そしてコーチングした選手たちが上達し活躍する姿を見ることだ。
(もちろん信仰の面においては神様を信じて愛して生きることが楽しみであることは特筆するまでもないが)

人は自分が溺れていることに気付くことが難しい。
そこから出て来て初めて溺れていたことに気付く。
溺れている人が溺れている人を救えない。
当たり前の話だが、私のこれからの大きな役割は、そういった乱行に溺れている人たちを救うことだと自負している。

溺れている人たちは怪しみ、罵るだろう。
救いの手を差し伸べても振り払われるかもしれない。

しかし、自分が乱行から抜け出して自由を得たことがどれほど幸せなことなのかを伝えられずにはいられない。

義なる生き方がどれほど良いのかは、義なる生き方をしてみないとわからない。

神様がどれだけ愛してくださっているかは自分が神様を愛してみなければわからない、とチョンミョンソク牧師はおっしゃった。

乱行から離れ、共に義なる生き方を求める人たちが増えていくことを心からお祈りしている。
過去の私がそうであったように…

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