春の甲子園・選抜大会に出場できる高校を選抜する問題から考える

最近、高校野球界でホットな話題となっているのが春の甲子園に出場する高校を選抜する問題。

準優勝チームが甲子園に行けず、ベスト4のチームが甲子園に行けるという事実に賛否両論が沸き起こっている。
単純な勝ち負けで決定するわけではなく、選抜だからこそこのようなことが起こりえるわけだなのだが…

「試合で勝ったのに甲子園に行けない…」

この事実に多くの甲子園を目指す球児たちは戸惑いを感じているかもしれない。

勝って甲子園に行くことが至上目的ならば、この事実は憂いでしかない。
しかし、負けても取り組みが評価されて甲子園に行けるならばそれ以上に嬉しいことはないのではないだろうか?
また、勝っても勝ち方に対して審議をかけて問題があるとなれば甲子園に行けないようにするのならば、これもまた球児たちが真に望む甲子園という舞台への挑戦に繋がっていくものになるのではないだろうか?

事実かどうかは分からない。
準優勝チームでは走塁妨害を狙うような練習に取り組んでいたという情報を得た。
ルールの中で行なうことに関しては、誰も何も文句はつけない。
しかし、ルールの範囲内という名目を使って、勝利という欲望を満たすために、ありとあらゆる手段を使っても良い、となるならば、これには待ったをかけなければならないと思う。

どういう野球をするか、野球というスポーツの品に関わる部分は、野球に携わるすべての人たちが責任を持って考えていかなければならないと思う。
チョン・ミョンソク牧師は「文化芸術は神様が人間にくださった最も良い贈り物だ」と教えてくださったが、神様がくださった文化芸術を人間の愚行によって汚すようなことがあっては決していけないのではないか…
人間的に考えても良心の呵責を起こすようなプレーは避けたいものだ…

今回の一件が、野球というスポーツの在り方自体を考えるきっかけになることを心から願う。
そして、野球という神様がくださった素晴らしい文化芸術がより崇高なものへと昇華され、より多くの感動を呼び込む文化芸術になることことを心から願い祈る。

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