「時間をかけて指導する」という愛の表現

日本で言えばエリート教育と位置付けるに値する練習プログラムで選手を育てることに熱を注ぐ毎日が続いている。
平日学校が終わってから4,5時間の練習時間を確保し、夕食を挟んで、夜寝る直前まで練習することもある。
私自身、コーチとして倒れそうになることも正直あるが、これほどまでに選手に手をかけてすることができる原動力は何だろうかと不図考えが深くなった…
一流の選手に育て上げたいという思いもあるが、それ以上に選手たちへの愛情がなければここまで時間をかけて指導できない、という考えに辿り着いた。
子どもを育てる時、苦労することが本当に多いが、子どもへの愛情があるからその全てを乗り越える母親の心情とまでは言えないかもしれないが、そのような愛情が原動力だと思う。

先生は、本当に多くの時間をかけて、御言葉で様々に指導してくださっている。
祈り、御言葉を受け取り、御言葉を伝える…この過程全てを時間で計算したら、おそらく母親が子どもを見る以上の時間だろう…
時間をかけることは、別の言い方をすれば、愛するということではないだろうか…

そのようなことを考えていたら、日頃の疲れも何でもないように感じてきた。

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。(ガラテヤ人への手紙6章9節)

刈り取る時は非常に待ち遠しい。
たゆまず、うみ疲れず(うんざりして疲れず)、その行ないを続けることは決して易しいことではない。
しかし、愛情ならば可能だと思う。
また力を出して明日も選手たちと向き合いたい。

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