自分の中で失っていたモノ

今日は主日礼拝だった。
御言葉の中で「自分の中で失ったモノがある」とおっしゃったことが特に突き刺さった。

「過ぎた日の経緯を忘れるな」と先生は頻繁におっしゃってくださっていたが、様々な“経緯”を私は失い、忘れて生きていたことを悟った。

 

経緯…
自分がどのような過程を経て今現在に至るのかを回想してみた…
特に祖国を離れて野球で生計を立てるようになるまでに労苦した日々のことを…

神様を信じて愛して生きているからと言って無条件良くなり栄えていくわけではない。
「努力」という責任は果たさないといけない。
それも並大抵の努力ではなく、先生がおっしゃるように、心と思いと命を尽くす努力だ。

ここ数日、現状に対する不平不満が出てきていた。
感謝したくてもできなかった。
問題の答えはやはり御言葉にあった。
忘れていた経緯を思い出したら感謝する考えに転換し始めた。

そして「言うべきことは言わないといけない」とコーチをしてくださった。
不平不満を抱えているのではなく、正当に主張するべきことは言わなければならないことを悟った。

 

やはり御言葉。
人生の問題にぶち当たった時、御言葉の中にその答えが入っている。
御言葉を通して答えを得る体験が連続するとき、御言葉が今生きて働かれる神様の言葉だということを認めるしかない。
摂理で御言葉を聞いて問題の答えを得てきたその経緯も忘れることなく生きていきたい。

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