誰かが見ていても見ていなくても、やるべきことをやること。

昨日、ある方からこのような質問を受けた。
「選手の親が近くで練習を見ていると指導しずらいのではないか?」

全く意識しないわけではない。
しかし、私はこのように即答した。
「誰かが見ていても見ていなくても、やるべきことをやることに変わりありません。」

 

選手たちに絶えず教育していることは、誰かが見ているからやるとか、誰かが見ていないからやらないとか、そういう考え方で野球をしないように、ということだ。
監督・コーチが見ていても見ていなくても真面目に真剣に練習が出来なければならない。
監督・コーチのために野球をするのか?
また、親のために野球をするのか?
自分がやりたくて、自分が自分の人生の中で選んでやっていることだということを選手たちがはっきり認識できるようにしたいと考えている。

自分自らやる練習とやらされてやる練習ではその効果が天と地の差。
幼い選手たちは自らやる力がまだまだ育っていないが、それでも教育し続けることで少しずつ意識に変化がみられている。

努力するベクトルが絶えず自分に向けられれば、どのような状況・環境の中でも目標に向かって突き進んでいくことができるようになる。
環境・与件・立場・雰囲気に流されるな」と先生は歌も作ってコーチしてくださった。
誰のためでもない、自分の目標に向かう選手たちに必要なコーチとして戒めたい。

 

努力は報いられるという。
しかし、一体どこの誰が報いてくれるだろうか?
隠れて努力する姿を神様はすべてご存じで、報いてくださる。
マタイによる福音書の6章(4,6,18節)を見てみると、「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」という文句が3度も出てくる。
(ここで父というのは神様のこと。)

誰かに見せようとして、報いてもらおうとして努力することも時にはあるだろう。
しかし、真の実力を兼ね備え、第一線で活躍する選手たちは皆隠れたところで想像をはるかに超える努力を自分のためにしている。

誰かが見ていても見ていなくても、やるべきことをやること。
その努力の報いを受けとることを心から祈る。

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