日々の頑張りを分かってくださる主神様

日々の頑張りを分かってくださる主神様だということを深く悟った出来事があった。
「灯台下暗し」という言葉があるように、近くにいる人ほどその頑張りが見えないものだ。
正直、私も一番近くにいる大切な人の頑張りをどれほど分かってあげられていたのだろうかと省みた…

今日、切実に祈っていた答えを強く受けた。
「お母さんがする仕事は目に見える何かを得るようなことはないが、その仕事のおかげで日々の生活が回る。」というような話を先生がしてくださったことがあった。
その話の真意を悟った。

家庭の中でもし神様がその頑張りを分かってくださらなければ家庭は回らなくなってしまうと思う…
人は他の人の心を100%知りえることはできないからだ。仮に長年付き合ってきた仲だったとしても…
家庭天国の基本は神様を中心に家庭を作ることだということを今一度深く悟った。

 

私はチームの中で、コーチという立場で、チームの女房役のような役割を担っている。
日々練習メニューを組んで選手がうまく消化できるように助けている。
1日2日で目に見えて選手が変化することはほぼない。
長い時間かけて成長していく選手に対して、ひたすら忍耐で指導し続けていく。
そんな日々の労苦の対価を求めるわけではないが、分かってもらえないとなれば、やはり悲しいものだ…

マタイによる福音書10章26節
だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。

しかし、感謝なことに、主神様は同じ心の持ち主を送って労ってくださる。
日々の頑張りを分かってくださって、言葉で、物質で省みてくださる。
「やって良かったな」「また頑張ろう」と力をくださる主神様だ!

 

もっと神様の目で選手を省み、日々の頑張りを分かってあげられる指導者へと変化していきたいと思う。

久しぶりの断食

昨日、久しぶりに断食をした。
胃腸を休ませるため、そして、自分の人生に深く向き合うためにした。

断食をすれば、体力が一時的に落ちてしまうが、断食して得られるメリットが多いため決行した。

今回、食べないことを通して、食べられず飢えて死んでしまう人たちの心情を察した。
空腹で寝床につくとき「ああ、こうして食べられずに生きる力を失って亡くなっていくのだな…」と悟った…
恵まれた社会の中で生きられることが本当に幸せなことだと悟り、神様に感謝した。

 

過ぎた日の経緯を考えながら、自分の今後の人生について考えた。
進路の悩みが人生の一番の悩みだが、先のことはいくら悩んでもキリがない…
(もちろん長期的なプランを立てながら今を計画的に過ごすことが大切だ。先のことばかりを憂うなという意味。)
今自分のいる位置で最善を尽くすことが、今自分が本当の意味で集中すべきことだという結論に至った。

先生は『今が重要だ』という曲を作ってくださった。
「今していることを心と思いと命を尽くして気を引き締めて上手くやらないといけない」という歌詞があるが、結局、どんなに良い将来のプランがあったとしても、今どのようにするかによって変わってくるということに気づいた…

 

空腹を経て口にした奥さんの味噌汁が最高に美味しかった。
(断食経験がない人は断食後の空腹に耐えきれず一気に食べてしまうことがある。一番危険な行為。胃に易しいものを少しずつ、よくかみ砕いて食べて、段階を経て元の食事に戻さなければならない。)
家庭があって、食を共にする時間も本当に尊い時間だと悟った。

 

自分の中で失っていたモノ

今日は主日礼拝だった。
御言葉の中で「自分の中で失ったモノがある」とおっしゃったことが特に突き刺さった。

「過ぎた日の経緯を忘れるな」と先生は頻繁におっしゃってくださっていたが、様々な“経緯”を私は失い、忘れて生きていたことを悟った。

 

経緯…
自分がどのような過程を経て今現在に至るのかを回想してみた…
特に祖国を離れて野球で生計を立てるようになるまでに労苦した日々のことを…

神様を信じて愛して生きているからと言って無条件良くなり栄えていくわけではない。
「努力」という責任は果たさないといけない。
それも並大抵の努力ではなく、先生がおっしゃるように、心と思いと命を尽くす努力だ。

ここ数日、現状に対する不平不満が出てきていた。
感謝したくてもできなかった。
問題の答えはやはり御言葉にあった。
忘れていた経緯を思い出したら感謝する考えに転換し始めた。

そして「言うべきことは言わないといけない」とコーチをしてくださった。
不平不満を抱えているのではなく、正当に主張するべきことは言わなければならないことを悟った。

 

やはり御言葉。
人生の問題にぶち当たった時、御言葉の中にその答えが入っている。
御言葉を通して答えを得る体験が連続するとき、御言葉が今生きて働かれる神様の言葉だということを認めるしかない。
摂理で御言葉を聞いて問題の答えを得てきたその経緯も忘れることなく生きていきたい。