悪ふざけが大きな事故に繋がる…

先日、一歩間違えば命を落としかねない事件が起こった。
練習前に選手が悪ふざけをして、凍った川の上を歩いていた…
普段は比較的流れの速い川だが、日中も氷点下の気温が続いたため凍った。
とは言え、人が乗って耐えられるほどの分厚さではなかっただろう…
その選手は氷が割れて落ちた…
現場を目撃してはいないが、後で本人に話を聞いてみると、氷が割れて膝上まで水に浸かったとのこと…
幸いにも流されずに済んだが、震えながら家に帰った…

面白半分で、好奇心で何かをすることがあると思う。
しかし、その末路を全く考えずに行なうことは非常に危険だ…

幼い選手たちはそのような危険予知能力が乏しい。
だから常日頃から教育を繰り返さなければならない。
自分の命を自分で守ることができるようにしてあげなければならない。

今回の一件、大事に至らなくて本当に良かったのだが、良かったでは終わらせてはいけない問題。
練習前の選手の動きまで統制することは難しいし、あまり縛ってはいけないが、目の届かないところで問題が起こらないように教育しなければならないと気を引き締めた。
選手たちを育てて素敵な野球選手に作る以前に選手の命を守る指導者にならないといけないと、この一件を深く心に刻みたい…

氷点下での練習を通して

日曜日に雪が降り、月曜日から日中氷点下の天候が続いた。
この環境下で5年の歳月を過ごしているが、さすがに氷点下での練習には身体が悲鳴を上げる…
分厚い靴下を履いていたのだが、足の指先の感覚がなくなり、しもやけになった…

そこまでしなければならないのか?と思うかもしれない。
しかし、そこまでしなければ一流にはなれない。
人が休む時に人一倍努力してこそ人の上を行くことができるだろう。

極寒の中での練習を経て、家に帰って先生の御言葉を聞いた。
私の小さな実践に結び付く先生の偉大な実践の御言葉が胸に突き刺さった。

先生は修道生活の期間にテドゥン山で祈られた。
先生が実際に祈られた場所を訪れたことがあるが、そこは岩壁の頂上であり、フェンスも何もないため、落ちたら命の保証はない場所…
さらに冬は氷点下10℃から20℃まで下がり、松の木が寒さで死ぬような場所…
そのような場所で先生は神様を呼び求め、全世界のために祈り、真理を探求した。

氷点下で一日に数時間の練習をするだけでも身体が悲鳴を上げるのが人間…
どのようにして先生が御言葉を受けたのか、少しは肌身で感じた…

偉大な実践から出るそのヒトコトを持って今日一日も生きられることに本当に感謝だ。

切なる思いを祈りに込めて

切なる思い…
どうしても解決したい生活の問題…
誰にも話せない人生の悩み…

そんな切なる思いを祈りに込める時、
心情の涙が溢れ出てくる…

 

あるキリスト教徒の写真を目にした。
みすぼらしい服装の母親が赤ん坊を背負い、聖書を前に置いて、両膝を折って祈ってる姿がその写真の中にあった…
母親の横にきょとんとした顔で座っているのがその人なのだが…

その写真を見て衝撃を受けた…

先生の御言葉を聞いてみると、時折、貧しくて食べることができなかった時の話が出てくる。
私は幸いにも食べるのに困ったことがなかった。
ゆえに、今日の食事のために切なる思いになったことがない…
しかし、食べることができない、苦しい生活を抜け出したい、そんな切なる思いを抱いて祈る母親の姿を通してその心情の一部が心に刺さって胸が苦しくなった…

40代、50代の韓国人に話を聞いてみると、小学校の時(1980年代)にお弁当の中に肉が入っていることはなかったと言っていた。
そして、ハムが入っていた人がクラスに2人しかいなかったと…

多くの人たちが切なる思いを祈りに込めたことを悟った…
先生は、自分自身のためだけではなく、全世界のために祈った…

そういう祈りによって、今の自分の生があることを深く悟った…

 

『私』

ひとかけらの瓦に
千年の夢を乗せ
私は日々希望で艪を漕ぐ

私は
“言葉より実践だ”

体は小さいがすべて理解でき
目は小さいがあの世この世
すべてを見抜く
手と足は鉄の杖のようで
我が人生で使ってなお余る

この身をもって
私のため
家族のため
民族のため
世界のため
天宙のため
未練なく使っていこう

(鄭明析牧師の霊感の詩1巻の中から)

先生が書かれた詩の中に『私』という詩がある。
最後の「この身をもって、私のため、家族のため、民族のため、世界のため、天宙(主・神様)のため、未練なく使っていこう」という部分が好きだ。
そのように生きた先生、自分の次元を超えて、民族・世界・神様のために祈って行われた先生の素敵な生を見習って、私も自分の次元を超えて、民族・世界・神様のために祈っていきたいと思う。
切なる思いを祈りに込めて。