学ぶ時の姿勢、心構え

野球の練習は学ぶ時間だとも言える。
自分ができないこと、知らないことをまずは学ばないといけない。

学ぶ時にはどのような姿勢、心構えを備えるべきか、今日は書きたいと思う。

チームに入団して長く経つ選手たちが、慣れ合いを通り越して、監督・コーチのアドバイスに対する返事がおろそかになることがある。
何となく聞き流して、何となく返事をするから、動きに変化がない…

以前、監督が選手たちにこのように教育されたことがあった。
「あなたたちは監督・コーチのアドバイス一言がどれほど貴重なエキスなのか分かっていない。
何年何十年も野球をしながら得た知識とノウハウが詰まっている。
それなのに、その一言をただ流し聞いて自分のモノにしようとしない。」

仮に、選手たちが教えてもらえることを当たり前のように考え、その教えをおろそかに扱うならば、それは大きな間違いだと思う。

野球で言えば教える立場にある私も、聖書の御言葉で言えば教えてもらう立場にある。
選手たちの姿を鏡として自分の学ぶ姿勢を深く省みている。

先生は修道生活の中で神様から御言葉を学んだ時にどのような姿勢で学んだのかについて話してくださった。
特に、神様の創造目的についてはたったの一度しか学んだことはなかったが、変わることなくその学んだことを持って生きてきたとおっしゃった。
たったの一度だけ聞いた教えを持って数十年も変わることなく生き続けることは決して易しくないだろう…
そして、一度学ぶ時には詳しく聞いて学んだともおっしゃった。
神様の教えを貴重に思い、一度だとだとしても詳しく聞いて学んで、それを実践してこられた先生の話を聞きながら、学ぶ時の姿勢・心構えはこのようにあるべきだということを悟った。

一度だけ聞いたとしても、その全てを自分のモノにすることができるようにその声に耳を傾けたいものだ。
そのような学ぶ姿勢・心構えを備えるならば、野球の技術はもちろんのこと、人間的にもより成長していくことが期待できるだろう。

“カメ”から学ぶ精神

カメと言われてすぐ思い浮かぶ話がある。
それは童話「ウサギとカメ」の話だ。

ある日、ウサギとカメが山の頂上を目指して競争をする。
ウサギは遅いカメを見て油断して、ひと休みした。
ウサギが休んでいる間にカメは着々とゴールへ向かって進んだ。
結局、ウサギが休んでいる間にカメが先着し、勝利するようになるという話。

この童話「ウサギとカメ」の話を通して得られる教訓は多く多い。

カメはなぜ勝利できたのか?
この童話の解釈が様々にあるが、私は決して諦めなかったということを挙げたい。
競争をする前、カメはウサギのスピードを知らなかっただろうか?いや、知っていたはずだ。
しかし、カメは決して諦めなかったのだ。
ゴールに向かう歩みを決して止めなかったのだ。
先生は「最後まで」という言葉をよく使われる。
何事においても「最後まで」やってこそ結果が出るものだ。
結局、カメは最後までやって勝利を手にした。

油断大敵という言葉があるが、ウサギは油断という大敵の前に屈してしまった。
ゴールしてから休むという選択肢を取れば良かったのだが…

日常の中で勝利の過程であるにも関わらず勝利したかのように振る舞い、勝利を逃すことが少なくない。
ウサギをあざ笑って、自分があざ笑われる目に合わないようにしたいものだ。

 

また、『誰かが見ていても見ていなくても、やるべきことをやること。』という記事にも関連する内容だが、誰も見ていない、人が休んでいる間に努力して得る報いは大きいだろう。
明け方から考えなさい。朝から考えるのでは遅い。」と先生が教育してくださったこともあったが、やはりどんな分野においても先を行く人は休んでいる時間に、人の見えないところで努力していると思う。
まるでウサギが休んでいる間にカメがゴールに向かうように。
(とはいえ、人間は睡眠なしには生きることができないため、休むべき時には休むことが知恵だ。)

材料が揃い、条件が合い、また天才が現れるとしても、時間に遅れたり、時間がなかったりするとできないものだ。
『天のことば 私のことば』(p.112)より)

ウサギのように能力があっても時間に遅れ、時間がなくなっては手も足も出ない。
カメのように休むことなく、持続的に、最後まで行なって勝利する人生を歩めるようにしたいものだ。

誰かが見ていても見ていなくても、やるべきことをやること。

昨日、ある方からこのような質問を受けた。
「選手の親が近くで練習を見ていると指導しずらいのではないか?」

全く意識しないわけではない。
しかし、私はこのように即答した。
「誰かが見ていても見ていなくても、やるべきことをやることに変わりありません。」

 

選手たちに絶えず教育していることは、誰かが見ているからやるとか、誰かが見ていないからやらないとか、そういう考え方で野球をしないように、ということだ。
監督・コーチが見ていても見ていなくても真面目に真剣に練習が出来なければならない。
監督・コーチのために野球をするのか?
また、親のために野球をするのか?
自分がやりたくて、自分が自分の人生の中で選んでやっていることだということを選手たちがはっきり認識できるようにしたいと考えている。

自分自らやる練習とやらされてやる練習ではその効果が天と地の差。
幼い選手たちは自らやる力がまだまだ育っていないが、それでも教育し続けることで少しずつ意識に変化がみられている。

努力するベクトルが絶えず自分に向けられれば、どのような状況・環境の中でも目標に向かって突き進んでいくことができるようになる。
環境・与件・立場・雰囲気に流されるな」と先生は歌も作ってコーチしてくださった。
誰のためでもない、自分の目標に向かう選手たちに必要なコーチとして戒めたい。

 

努力は報いられるという。
しかし、一体どこの誰が報いてくれるだろうか?
隠れて努力する姿を神様はすべてご存じで、報いてくださる。
マタイによる福音書の6章(4,6,18節)を見てみると、「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」という文句が3度も出てくる。
(ここで父というのは神様のこと。)

誰かに見せようとして、報いてもらおうとして努力することも時にはあるだろう。
しかし、真の実力を兼ね備え、第一線で活躍する選手たちは皆隠れたところで想像をはるかに超える努力を自分のためにしている。

誰かが見ていても見ていなくても、やるべきことをやること。
その努力の報いを受けとることを心から祈る。