惜敗、涙の意味は自分の力ではどうしようもできない結果だった…

先週から今週にかけて1泊2日、3泊4日の遠征・大会があった。
こんなにも長い間家を開けたのは久しぶりだった。

コロナウイルスへの感染が懸念される中、大会への参加資格者にはコロナの検査が義務付けられた。
コロナの検査で鼻の穴の奥深くをえぐられる苦痛は本当に耐えがたい…
(もうすでに5度も経験した…)

 

さて、大会の結果は全国大会ベスト8だった。
選手たちは本当に健闘した。
ベスト4を懸けた試合では引き分け、その後のくじ引き抽選で敗退することになった。
選手は全員涙した。
私も涙した。

今回、この負けを通して多くの教訓を得た。
特に、くじ引きで負けた…という事実をどのように受け止めれば良いのだろうか?と深く考えた。
「勝利の女神」だとか、「野球の神様」だとか、「運」だとか、いろいろなモノを人が勝手に作り出して、説明できない事象を説明しようとする行為だということが分かった。
勝負の世界に宗教や信仰というモノをごちゃまぜに盛り込み、ああだこうだと言い争うこと自体が愚かな行為だということが分かった。

正直、信仰を持つ私は「勝てるようにしてください」と祈った。
しかし、勝てなかったからと言って、祈りを聞いて下さらなかったとは絶対に思わないし、神様なんて存在しない!と言って信仰を捨てるようなことはしない。
その祈りが神様の前にふさわしいものではないかもしれないし、もっと良いものをくださる神様だから、むしろ負けた方が良いことがあるかもしれないからだ。

正直、今回のベスト4を懸けた試合では、明らかに勝てるように強力に導いてくださったことを感じた。
2-1で迎えた2回、1アウト23塁のピンチの場面。
カウント1-1で頭の片隅にもなかった考えが脳に突き刺さった。
「スクイズだ」
神様が霊感で働きかけて下さり、決定的なその場面でスクイズを外すことに成功した。
が、しかし、挟殺プレーで凡ミスをし、1点を奪われてしまった…
あまりにも痛い1点だった。
その1点さえなかったら同点という結果には終わらなかっただろう…
(もちろん野球において「たら・れば」はご法度だが…)

また、ベスト8進出を懸けた試合においては、延長戦の末、サヨナラ勝ちを収めた。
蓋を開けてみれば2安打、その2安打が延長に入ってから重要な場面で出たのだった。

チョンミョンソク牧師は人間の責任分担について教えてくださった。
神様が働きかけてくださっても人間が果たすべき責任があるということ。

車の運転において、車を運転する技術がなければ事故をしてしまうだろう…
スポーツにおいて、実力がなければ勝つことは難しいだろう…

そのようなことで神様を恨んだり、信仰を捨てたりすることは、その発想自体に誤りがあると思う。

 

これまでもくじ引き抽選によって惜敗したことが幾度もあった。
逆に勝利したこともあった。
最終的に勝敗を決める方法を再考すべきではないかと私は思う。
選手たちが流さなくてもよい涙を流すことがないように…

監督のその指示の意図を汲み取れる選手

先日、練習試合が行われた。
その中で非常に重要なプレーがあった。

5-2で迎えた3回、1アウト3塁の場面だった。
監督は前進守備シフトをしかず、後ろで守るように指示した。
この指示は、つまり、点数をあげても良いが、代わりにアウトカウントを取らないといけないという意図が含まれていた。

さて、カウント2-1からの4球目、低めのワンバウンドに手を出した打者。
空振り三振かと思いきや、捕手は2,3メートル後方へ捕逸、振り逃げの形となった。
その時、捕手は3塁ランナーを意識するあまり、1塁への送球をし損ねてしまった…

守備位置の指示ひとつから意図を汲み取っていたならば、即座に1塁へ送球し、先にアウトカウントを取っただろう…

指示を受け取る選手たちは、その指示通りに動くことを求められるが、決してロボットではないことを忘れてはならない。
その指示の意図は何なのか、汲み取って指示を遂行してこそ一流の選手と言えるだろう。

非常に重要なプレーと表現した理由はこのことだ。
指示の意図を汲み取れる選手であるかどうかを見極めるプレーだったからだ。

野球に限らず、社会生活においても同じことが言えると思う。
何らかの指示を受けたとき、その指示を順守することはできても、その意図するところを考え、汲み取って動くことはなかなか難しい。
しかし意図を汲み取るところまで出来るかどうかによって、自分が指示を出す側に回った時に最善の判断・選択ができるようになる。

また、信仰生活においても同じことが言える。
同じく神様の御言葉を見聞きしても、その意図・言わんとすることを正確に汲み取らないと大失敗をすることになる。
神様の歴史を見てみても、神様の御言葉をしっかりと聞かず、聞き従わずに失敗している。
アダムとエバやヨシア王がその代表例だ。

野球の監督の指示しかり、会社の社長の指示しかり、神様の御言葉しかり…

意図を汲み取ることのできる選手になれるように続けて教えていきたいと思う。

必ず経なければならない道

ひとつの分野で成功しようとするならば物凄い量の努力が必要だ。
特に運動という世界では本当にそうだ。

人々はある運動選手を見て「持って生まれた才能だ」と言うが、彼の努力する姿を見てないがゆえにそのような言葉が出てくる。

努力という単語の深い意味を知らなければならない。
同じく‘努力’と言うが、努力をたくさんしたことのある人が使う‘努力’と努力をあまりしたことのない人が使う‘努力’とでは完全に異なる意味がその‘努力’の中にあるだろう。
各分野ごとに成功した人たちの生き様の中に入ってみなければ、その深い‘努力’の意味を知ることはできない。

人々は努力が必要だということは分かっている。
しかし、しんどいことを避けたい心のゆえに、努力を惜しむ。
努力というものは目的地まで行くときに経なければならない道であるにも関わらず楽な他の道を探す。
高速道路に入るためには料金所を経なけらばならないように、自分がしたいことには必ず経なければならないことがある。
いくら自分がしたいことだとしてもその中には避けることのできないしんどいことがある。

野球の練習においては、バッティングやピッチングなどの技術練習だけをやって一流の野球選手になれるわけではない。
しんどい体力トレーニングを経なければ相手と戦って勝つことのできる力を身に付けることはできない。
体力トレーニングは本当にしんどい。
避けたい。
しかし、体力トレーニングを経なければ力負けする。
自分の身体を作ることが技術練習のように重要だ。
必ず経なければならない過程だということを分かって、決して避けることなく、体力トレーニングに果敢に取り組まなければならない。
そうして体力トレーニングを経た選手は本当に強い。

誰も助けてくれる人はいない。
自分が努力しなければならない。
これが必ず経なければならない道だ。