1924年、今から100年前に甲子園球場は完成しました。
甲子園球場は野球人たちにとって「聖地」と呼ばれるほどに特別な場所として知られています。
私も約20年ほど前に聖地を目指して日々努力した身ですが、その場所に足を運ぶと今でも当時の記憶が鮮明に蘇ってきます。
先日、甲子園球場に夏の高校野球を見るために足を運ぶ機会がありました。
甲子園球場でプレーする高校球児たちの姿はいつ見ても感動を呼ぶものがあります。
実は、昨年も足を運んだのですが、今年はひと味違う視点を持って見ることができました。
まず、高校球児たちのプレーについてです。
そのプレー一つひとつがどのような過程を経て生まれるようになったのか、その背景に注目しました。
数万の練習の過程を経て生まれたプレーは芸術という表現がピッタリなほどに美しく見えました。
どれほど練習を積めば物凄い観客と猛暑の中でそのようなプレーをすることができるでしょうか?
今週の御言葉、条件対価という話が出ましたが、やはりタダはなく、練習という条件を積んだ対価としてそのようなプレーを得たのだということを確信しました。
また、監督の役割についてです。
監督は選手の代わりにプレーしてあげることはできません。
練習の中で手取り足取り教えることはできますが、試合中は選手がやるしかありません。
最終的には選手がどうするのか、その責任が大きいということです。
神様も同様に、人間に責任分担をお与えになり、神様が御言葉はしてくださるけれども、人間がどうするのか、その責任が大きいということを深く知るに至りました。
その他にも多くの信仰のことを野球を通して学び知ることができることを私は強調したいです。
さて、甲子園球場は100年という歴史を刻みました。
その100年の歴史の中で様々なストーリーが生まれました。
100年という歳月は人間の人生を考えると非常に長い時間です。
100年という歳月であってもいまいちピンと来ないのに、神様の宗教歴史6000年と言われてしまうと余計にピンと来ない人たちが多いかもしれません。
しかし、歴史は確かに存在した事実です。
その歴史の事実に目を向け、その先代たちが築き上げて来たモノを今の自分たちの人生に活かすことが非常に大切です。
甲子園球場の歴史、そして神様の歴史、歴史という大きな遺産を存分に活かす人生を送りたいと思います。