この夏、ある高校の県大会決勝と甲子園一回戦の様子を現地で直接観ることになった。
本題に入る前に…
私は自分の意図によってある高校を見ようとして現地に足を運んだわけではない。
天の導きによって観ることになったのだ。
県大会の決勝は奥さんのお父様が連れて行ってほしいということで行くことになり、甲子園は子どもたちを連れて行こうと思い、スケジュール調整をしたところ、その日程のその時間しかなかったのだが、そこにドンピシャでその高校の一回戦が重なり、行くことになったのだ。
自分の意向が一切入っていないことは火を見るよりも明らかであり、天の導きを感じるしかなかった。
さて、高校野球を現地で観たのは6年ぶりだった。
高校生が青春を白球にかける姿は本当に輝いていた。
一つ一つのプレーに拍手を送りたいほど感動した。
同時に、神様がこの世を作ってくださり、神様が野球という素晴らしい芸術を作ってくださったことを知らずに野球をやっていることに寂しさを感じた。
おそらくは信仰を持たない人たちにとって神様が野球を作ったなどと言えば何を馬鹿なことを言っているのか、となるに違いない。
しかし、野球というスポーツをプレーすればするほどにルールが出来すぎていることを感じるだろう。
2ストライクでもなく、4ストライクでもなく、3ストライクでアウト。
2アウトでもなく、4アウトでもなく、3アウトでチェンジ。
9人でプレー。(3×3)
9回。(3×3)
絶妙な3の数からなる野球の構造は人智を超えている。
運動芸術は神様が人間にくださったプレゼントだとチョンミョンソク牧師は教えてくださった。
本当にそうだと思う。
もしそのプレゼントがなかったらどうだろうか?
この世に運動・スポーツ・野球が無かったらどうだろうか?
人生、つまらないと思うのは私だけではないだろう。
県大会決勝でも甲子園1回戦でも、応援が素敵だった。
応援する文化が本当に素敵だと思った。
人を応援するということはその人の側(がわ)に立たないとできない。
妬み・嫉妬する世界ではなく、いつも一つになって応援する文化がもっと広がっていくならば、世界が平和になっていくだろうと心から思う。
試合はその高校がどちらも勝利した。
試合ではミスをいかに無くすかが明暗を分けることを深く悟った。
1点ビハインドで終盤を迎えた状況で同点弾が飛び出したが、その一球が試合を決めた。ピッチャーからしたら失投だった。
また、フォアボールでランナーを溜めて長打で逆転した。
余計なランナーを出すことは傷口を広げるようなことだ…
小さなミスかもしれない、でもそれが失点という大きな傷を負うことに繋がる。
森を燃やすほどの大きな火事も小さな火種から始まるという聖書の言葉通りだ。
高校野球はプロ野球の次に観戦者が多いという笹川スポーツ財団の調査結果(2018年)がある。
それだけ日本においては注目度が高い。
そんなにも注目を集める高校野球が担う役割は大きく大きい。
高校野球を通じて発信されるものも大きい。
そんな高校野球から、神様が作ってくださった野球の魅力がもっと伝わり、また野球のみならず、日本の様々な運動芸術・文化を引っ張っていく存在となってほしいと思う。