主人の目で見ること

野球の練習を終え、片づけをしながら失くしたボール一個を見つけ出すことが出来なくて、監督から「見つけるまで帰れないぞ!」と言われたことはないだろうか?
その時、「ボール一個くらい…」と心の中で思ったことはないだろうか?(正直、幼かった私はボール一個くらいいいじゃないかと思ったことがある。)

タイトルの通り、主人の目で“ボール”を見たらどうだろうか?
自分がお金を出してその“ボール”を買った主人だったならばボール一個だったとしても探さないだろうか?

 

先生は「ボールを命と思いなさい。」と教えてくださった。
ボールは命、天下を与えられても代えることのできない命だったならば一個くらいいいやという思いには絶対にならないはずだ…

 

マタイによる福音書18章12節
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。

読者の皆さんはどう思うだろうか…
私は聖書を読み進めて間もない頃、この箇所が腑に落ちなかった。
その後、数年間、摂理で御言葉を学んできたが、正直、この箇所については心の奥底からアーメンと言える解を得られていなかった…
しかし今日、ハッキリとたった一匹のために九十九匹を残して探すということがどういうことなのか悟ることができた!
主人の目で“羊”を見るとその真意を理解できるようになった!

仮に、自分が一匹一匹の“羊”を心から愛している羊の主人だったらどうだろうか?
その一匹一匹の“羊”を遠くから買って連れてきた経緯がある。
その一匹一匹の“羊”との思い出があり、情が移っている。
そんな“羊”が一匹だとしてもいなくなってしまったならば大騒ぎだろう…
何としてでも、九十九匹を残してまでも、探しに出かけるだろう!

 

マタイによる福音書18章10~14節
あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。
〔人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。
もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。
そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

ここで“羊”は比喩であり、人の命のこと。

マタイによる福音書16章26節
たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

命を神様の目で見たとき、当然、その人一人だったとしても、絶対にその命が損なわれてはならない。

命はもちろんのこと、その他多くの環境や物質など全てのことを主人の目で見る、すなわち、神様の目で見ることができるようにしていきたいと思う。
本当に貴重なモノを貴重に見ることができるように…

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