切なる思い…
どうしても解決したい生活の問題…
誰にも話せない人生の悩み…
そんな切なる思いを祈りに込める時、
心情の涙が溢れ出てくる…
あるキリスト教徒の写真を目にした。
みすぼらしい服装の母親が赤ん坊を背負い、聖書を前に置いて、両膝を折って祈ってる姿がその写真の中にあった…
母親の横にきょとんとした顔で座っているのがその人なのだが…
その写真を見て衝撃を受けた…
先生の御言葉を聞いてみると、時折、貧しくて食べることができなかった時の話が出てくる。
私は幸いにも食べるのに困ったことがなかった。
ゆえに、今日の食事のために切なる思いになったことがない…
しかし、食べることができない、苦しい生活を抜け出したい、そんな切なる思いを抱いて祈る母親の姿を通してその心情の一部が心に刺さって胸が苦しくなった…
40代、50代の韓国人に話を聞いてみると、小学校の時(1980年代)にお弁当の中に肉が入っていることはなかったと言っていた。
そして、ハムが入っていた人がクラスに2人しかいなかったと…
多くの人たちが切なる思いを祈りに込めたことを悟った…
先生は、自分自身のためだけではなく、全世界のために祈った…
そういう祈りによって、今の自分の生があることを深く悟った…
『私』
ひとかけらの瓦に
千年の夢を乗せ
私は日々希望で艪を漕ぐ私は
“言葉より実践だ”体は小さいがすべて理解でき
目は小さいがあの世この世
すべてを見抜く
手と足は鉄の杖のようで
我が人生で使ってなお余るこの身をもって
私のため
家族のため
民族のため
世界のため
天宙のため
未練なく使っていこう(鄭明析牧師の霊感の詩1巻の中から)
先生が書かれた詩の中に『私』という詩がある。
最後の「この身をもって、私のため、家族のため、民族のため、世界のため、天宙(主・神様)のため、未練なく使っていこう」という部分が好きだ。
そのように生きた先生、自分の次元を超えて、民族・世界・神様のために祈って行われた先生の素敵な生を見習って、私も自分の次元を超えて、民族・世界・神様のために祈っていきたいと思う。
切なる思いを祈りに込めて。