「情」について

「あの人は『情』深い人だ」と言うことを聞く。
ここで言う「情」とは何だろうかと考えることが最近多い。

 

おとなり韓国は「情」の文化だと言われる。

콩 하나도 나눠 먹는다. 豆一つも分けて食べる。

豆一つだとしても分けて食べる。
そんな生き方をしている人こそが真に「情」深い人だということができるのではないだろうか。

自分も豆一つしかない苦しい状況。
でも相手は何もないというもっと苦しい状況。
だから、相手のことを想い、分けて食べようという精神。

大抵、人は苦しい状況・環境下に置かれると、
自分のことを考えることで手一杯になるもの。

「情」がある人であっても、
自分の立場が苦しくなれば、
結局は自分のことを考えざるを得ないのが人間の心理。

 

でも、僕が知る先生は違う。
自分が苦しい状況・環境下に置かれても、
自分のことよりも僕のことを考えてくださった。
豆一つしかなくてもそれを分け与えるのと同じく、
その苦しい状況・環境下でできることはあまりにも限られているけれども、
限られた範囲内でできることをしてくださった。

一番労苦されているはずなのに、
気遣って「お疲れさま」と声をかけてくださった。

直接行けないから、
代わりに人を送って労ってくださった。

 

・・・涙

 

本当に「情」深い人というのは、
その中心に大きな愛があることを知るようになった。

先生が教えてくださった愛、
それは「相手が願っていることをして差し上げること」。

自分が何かしたいことをするのではなく、
相手が願っていることを分かってすること。

ここに挑戦していこうと思う。

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