原石

ダイアモンドの原石を実際に見たことがあるだろうか?
ダイヤモンドのような綺麗さ、輝きはない。(もちろんそれ自体でもある程度は輝いているが…)
原石を研磨してこそ、あの美しいダイヤモンドが誕生するようになる。

才能のある人をダイヤモンドの原石に例えることがある。
磨けば素晴らしい選手になれる!と教え説く。

しかし、ダイヤモンドの原石を研磨する過程には想像を絶する労力が必要であるのと同じく、
いくら才能を持っていると言ってもその才能を開花させるためには文字通り血のにじむ努力が必要だ。

ゆえに、努力する過程の中で「自分は才能がないのでは?」と思い込んでしまうのだ…

正直、スポーツの世界で才能を開花させられる人は一握り…
狭き門を行く競争者たちも多いがゆえに、その道のりは険しすぎる…

 

最近、ある選手の個別指導を依頼された。
その選手の話を聞いて、正直、驚いた。
チームの練習が明け方の2時まで行われるという…
私もそれなりに熱意をもって取り組んできた自負があったが、次元が異なる競争世界の話を聞いて、自分の人生観が変わった。

そこまでやる必要があるのか?と思うだろう…
もちろん、明け方の2時まで練習をして、効果があるのか?と問い詰めていけば、本当に効果があるのか分からない。
しかし、そこまでやってこそ見えてくるモノがあるのも事実。

 

何かを得ようとするときに、それに見合う、それ相当の努力をしているのか?と自問自答するようになった。
また、得ている人を見て、それに見合う、それ相当の努力をしているということを深く考えるようになった。

コリント人への第二の手紙9章6節
わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。

 

12月に入り、本格的に冬のトレーニングを開始した。
一年の中で一番苦しいこの時期に歯を食いしばってどれだけ努力できるのか、どれだけ自分を追い込めるかによって春先の結果が大きく変わってくる。

各自持って生まれたものは確かにある。
しかし、それを開発し、生かすのは自分の努力次第。
自分を原石と思い、自分を磨くことに努力を惜しまない一冬を過ごしたいと思う。

詩篇126篇5節
涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。

選手を省みるということ

先日、OBの選手が怪我をして入院したという知らせを聞いて、病院に駆けつけた。
雨の日に階段で足を滑らせ、脇の側溝に足が挟まり、そのまま倒れて靭帯が切れたそうだ…
彼は我がチームにいた時にも試合中に滑って靭帯を切った…
今回で二回目、全治3か月の診断、リハビリも入れて復帰には半年ほどかかるだろう…

私も怪我や病気で戦線離脱した経験が多々ある。
どれほど悔しく、どれほど苦しい思いで病院のベットで横たわっているだろうか…

そんな彼の心の慰めになればと思い、お菓子とパンとジュースを買ってお見舞いに行った。
今週、先生は命を省みなさいとおっしゃったが、いつも命を愛で省みられる先生の心情が少し分かった気がした…

 

野球選手の中で故障や怪我と戦っていない選手はいない、と言っても過言ではないと思う…
身体を駆使し、日々戦う選手たちを省みることは指導者の大きな役割だ。
技術を教え、訓練させることも大切だが、心身のケアを怠ると選手生命を失うことになりかねない…
今年一年の締めくくり、選手を省みることに集中したいと思う。

ボールが頭部に直撃

バッティング練習中のことだった。
2か所でバッティングをしていた。
私はバッティングピッチャーを務めていたのだが、打球がネットのフレームのパイプ部分に当たって跳ね返り、私の頭部に直撃した…

ネットの配置が悪かったわけではなかった。
確率的には何万分の1だろうか…
事故というものはそういうものだ。
自分が予想だにしない状況下で起こりえる。

「自ら気をつけなさい」と鄭明析牧師はいつも話されるが、
どんなことをするにしても安全第一、本当に気をつけなければならないと緊張の帯を締める機会となった。

(衝撃はかなり強かったが、幸いにして少し腫れただけだった…守ってくださった神様に感謝…)

 

硬式野球の練習中に命を落とすケースが少なくない…
幼い選手たちはどれほど危険が伴うのか分かっていないことがある。練習中に集中力が途切れることもある。
事故が起こらないように、気を引き締めるように檄を飛ばすことも、”命を守るため”には必要になってくる。

指導者はもしもの場合に備えて、応急処置の方法などは心得ておかなければならない。
アイシングの仕方やAEDの使い方など、必ず知っておかなければならない。

尊い選手たちを安全に指導することができるように一層努めていきたいと思う。