状況・環境はいつも整っている訳ではない…

この主題だけを見聞きすれば悲観的な話かと思われるかもしれないがそうではない。
「状況・環境はいつも整っている訳ではない」という考えが頭の中に入っていれば、少々状況・環境が良くなくても夢に向かって突き進んでいけるという話しだ!

コロナの影響で少数で練習を進行しなければならない状況であり、雪が溶けてグランドは水浸し、限られた環境の中での練習が続いている。
しかし、いつでもどこでもやれることは山ほどある。
河川敷の狭いサッカー場で練習を重ねて全国大会・優勝を勝ち取った経験から考えても、状況・環境が致命的な問題ではないことを強調したい。

コーチという立場から選手たちに伝えたいことが様々にある。
今このような状況・環境下だからこそ、その状況・環境を好材料として活用して教育することができると思っている。
状況・環境を言い訳にする人生にはなってほしくないという切なる願いを込めて最近は一層練習に熱が入っている。

先生がベトナム戦争に行かれた時、片手には銃を、片手には聖書を持ち、命の懸っている戦場でも聖書を読んだエピソードが思い出される。
「目的は目的だ」という有名な箴言があるが、状況・環境を決して言い訳にしない、目的を達成することに全力を尽くしていく、そういう人間に自分自身も成長したいし、選手たちもそのようになってほしいと思う。

責任を取る男、責任を取れる男

昨日、一つのドキュメンタリーを紹介してもらった。
分量が1時間のドキュメンタリーだったのだが、ゆっくり見る時間がなく、二倍速で見た。
内容は韓国のプロ野球が始まって間もない1984年の韓国シリーズで大活躍したある投手の話だった。

韓国のプロ野球は1982年に6チームで始まった。
現在は10チームで一つのリーグを作って試合をしている。
メジャーや日本にも多くの人材を送り出している。

彼は韓国プロ野球の草創期を盛り上げた。
1984年の韓国シリーズで優勝のかかった一戦を彼は一人で投げ切って胴上げ投手となった。
優勝直後のインタビューでは記者から今一番言いたいことは何かと問われ「寝たいです」と答えていた(笑)
なぜそのように答えたのか?
その年の韓国シリーズでは第7戦の最終戦までもつれたのだが、そのうちの4戦に先発、1戦はリリーフと計5試合に登板したからだ!
日本のプロ野球でも過去にそのようなエースの連投劇が繰り広げられていた。

彼はメガネをかけていた。
当時、韓国ではメガネをかけている男性は弱弱しいというイメージがあったそうだが、彼の活躍によってメガネブームが巻き起こった。
メガネをかけた投手の漫画が登場したり、彼と同じメガネのフレームが流行になった。
そのメガネのフレームは今も人気があるという。

そんな彼と実際に対戦した人物たちの話がドキュメンタリーの中で出てきた。
彼は他の投手と何が違ったのか?
それは精神、「ピッチャーは力のある限り投げぬくんだ」という精神を確かに彼は持っていた。

この言葉は自分がマウンドに立つならばその試合は責任を取るということだろう。
彼が延長15回の試合も紹介されていた。
相手の投手も完投し、両者200球を超える投球数だった。
今ではあり得ないことだが、自分がマウンドに立った試合は自分が責任を取るという気概は今の時代にも必要な精神だろう。

先生がベトナム戦争に行かれた時、どのような思いだったのかを想像してみる。
先生はベトナム戦争に行くのが嫌だったが、「人が道を行く途中、兄弟たちが血を争うことを見て、その道をただ避けて通ることができるのか?あなたは私(神様)を信じて生きる者として誰よりも先に行って止めないといけないのではないか?個人の争いが大きくなり、民族の争いまでになったあの国で争いを止めにこの民族あの民族が行っているのに、あなたも先頭に立って行ってみなくてはいけないのではないか?あなたが行って人々がどのように戦争をしているのか、彼らと同じく直接経験してみて私に祈り求めなければならないのではないか?*1」という神様からの霊感を受け取ってベトナム戦争行きを決意された。
その時、実際に先生がどのような思いであったかは定かではないが、自分が責任を取るという思いで行かれたのでは…

責任を取ると言えるということは、実際に、責任を取れるだけの力を兼ね備えている証だろう…

責任を取る男、責任を取れる男になろう!という決意を込めて書いた。

 

(*1) 『戦争は残忍だった。愛と平和だ。』(第一巻 p.46)より

自分の出番が来たら…

今日は日曜日、主日礼拝をオンラインで捧げた。
先生は今日も変わることなく全世界に向けて神様の御言葉を伝えてくださった。

今日は「時」について伝道の書3章を参照しながら教えてくださった。
特に記憶に残っている御言葉は「時が来たら与件が良くなかったとしても「時」だけ見て強く動かないといけない。動けば神様が行なってくださる」という内容の御言葉。

 

野球に落とし込んで考えてみた。
監督が「明日先発で行くぞ!」と言われたらどうするだろうか?
あるいは試合中に「次、代打行くぞ!」と言われたらどうするだろうか?
自分の出番が来たわけだが、アタフタして「え、無理です…」などと言えるだろうか?
自分の出番、すなわち自分の時が来たら置かれている状況がどうであろうと突き進んでいかなければその時・機会を掴むことはできない。
このようにこうだということだ。

 

神様の時はどのようにしたら分かるだろうか?
神様の御言葉の中で知ることができるのだ。
大局的な時代の流れ、歴史という壮大なスケールを誰がどうやって完全に俯瞰することが可能だろうか?
神様の御言葉でのみ、その「時」を掴むことができるのだ。

時は機会だ。時を逃したらできない。
(2021年1月17日主日の御言葉)

アーメン。