野球を通して学んだことを語る会

先日、野球が大好きな摂理の野球部のメンバーたちがオンラインで集結し、野球を通して学んだことについて熱く語り合った。

  • 個性・一芸を磨くことでレギュラーの座を掴んだ経験を通して、社会の中でも何か個性を磨くことで通用するということを学んだ。
  • 自分の気持ちに向かい合ってポジティブに考えるように努力するようになった。
  • ひとつ一つのプレーの前に、どういうことが起こりそうか予測し準備するよう教えてもらい、何事も前もって備えるようになった。
  • 野球を辞めようと思った時、仲間が声をかけてくれたことによって続けることができた。仲間の大切さ、そして続けることの大切さを学んだ。
  • 「迷ったら前に出ろ」という言葉が今の自分の人生の決断においても生きている。
  • 当たり前のことを当たり前にする、基本を徹底することが大切だと学んだ。
  • 誰かの支えがあるからこそ野球がやれるということを知るようになってから、当然と思う心から感謝する心に変わった。
  • 継続する力が野球を通して養われた。

それぞれが語ってくれたことを箇条書きにしてみた。
野球というスポーツを通して多くのことを学ぶことができると改めて確信する時間になった。

野球というスポーツに対するイメージは人それぞれだが、野球をした経験がなく、今日のニュースを見聞きしている人たちにとっては良くないイメージなのかもしれない。
暴力、賭博、飲酒運転などなど、野球に携わっている人たちがそのような行為をしてしまうがゆえに、野球というスポーツ自体のイメージが悪くなるしかない状況だ…

野球の良さを発信することも野球をやっている人たちの使命であり、野球そのものの価値を作りあげていくことも野球をやっている人たちの使命だと思う。

今回の語り合いはとても良い時間だった。
摂理の野球部は野球の良さを伝え、野球の価値を高めることに今後も挑戦していきたい。

終戦から数えで77年…戦争のない中で生きられるということ

人は日常の中で意識せずに(意識をすることができずに)生きていることがある。

戦争のない中で生きている私は戦争のない中で生きているということを日常の中で意識することがほとんどない。

今日は意識して本当に感謝して呼吸をしたいと思う。

 

私は争いが本当に嫌いだ。

人が憎み合い、殺し合う中では到底生きることができないと思う。

どうやって戦争の中を生き抜くことができたのだろうか…

 

平和という単語にはものすごく深い意味が含まれていることに気づいた。

戦争のない中で生きられるということがすなわち平和…

 

平和を自分の力で手に入れようとしても難しい。

平和を作り出すものは神の子と呼ばれるだろうと書かれている聖書の言葉(*1)を思い出す…

 

チョンミョンソク牧師がベトナム戦争に行かれ、敵を決して殺さず、捕虜として捉え、愛で戦争を平和につくりかえようと走られたことを思い出さずにはいられない。

一体どのようにして戦渦の中で愛という言葉が出てくるだろうか…

 

自分が戦争に行くと想像してみた。

生きて帰る自信が全くない…

どうやって銃弾が飛び交う中で生きて帰って来れるだろうか…

 

戦争のない中で生きられるということに感謝・感激。

今後も未来永遠までこの地球上で残忍な戦争が起こらないことを切に祈る。

 

(*1)マタイによる福音書5章9節 : 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

惜敗、涙の意味は自分の力ではどうしようもできない結果だった…

先週から今週にかけて1泊2日、3泊4日の遠征・大会があった。
こんなにも長い間家を開けたのは久しぶりだった。

コロナウイルスへの感染が懸念される中、大会への参加資格者にはコロナの検査が義務付けられた。
コロナの検査で鼻の穴の奥深くをえぐられる苦痛は本当に耐えがたい…
(もうすでに5度も経験した…)

 

さて、大会の結果は全国大会ベスト8だった。
選手たちは本当に健闘した。
ベスト4を懸けた試合では引き分け、その後のくじ引き抽選で敗退することになった。
選手は全員涙した。
私も涙した。

今回、この負けを通して多くの教訓を得た。
特に、くじ引きで負けた…という事実をどのように受け止めれば良いのだろうか?と深く考えた。
「勝利の女神」だとか、「野球の神様」だとか、「運」だとか、いろいろなモノを人が勝手に作り出して、説明できない事象を説明しようとする行為だということが分かった。
勝負の世界に宗教や信仰というモノをごちゃまぜに盛り込み、ああだこうだと言い争うこと自体が愚かな行為だということが分かった。

正直、信仰を持つ私は「勝てるようにしてください」と祈った。
しかし、勝てなかったからと言って、祈りを聞いて下さらなかったとは絶対に思わないし、神様なんて存在しない!と言って信仰を捨てるようなことはしない。
その祈りが神様の前にふさわしいものではないかもしれないし、もっと良いものをくださる神様だから、むしろ負けた方が良いことがあるかもしれないからだ。

正直、今回のベスト4を懸けた試合では、明らかに勝てるように強力に導いてくださったことを感じた。
2-1で迎えた2回、1アウト23塁のピンチの場面。
カウント1-1で頭の片隅にもなかった考えが脳に突き刺さった。
「スクイズだ」
神様が霊感で働きかけて下さり、決定的なその場面でスクイズを外すことに成功した。
が、しかし、挟殺プレーで凡ミスをし、1点を奪われてしまった…
あまりにも痛い1点だった。
その1点さえなかったら同点という結果には終わらなかっただろう…
(もちろん野球において「たら・れば」はご法度だが…)

また、ベスト8進出を懸けた試合においては、延長戦の末、サヨナラ勝ちを収めた。
蓋を開けてみれば2安打、その2安打が延長に入ってから重要な場面で出たのだった。

チョンミョンソク牧師は人間の責任分担について教えてくださった。
神様が働きかけてくださっても人間が果たすべき責任があるということ。

車の運転において、車を運転する技術がなければ事故をしてしまうだろう…
スポーツにおいて、実力がなければ勝つことは難しいだろう…

そのようなことで神様を恨んだり、信仰を捨てたりすることは、その発想自体に誤りがあると思う。

 

これまでもくじ引き抽選によって惜敗したことが幾度もあった。
逆に勝利したこともあった。
最終的に勝敗を決める方法を再考すべきではないかと私は思う。
選手たちが流さなくてもよい涙を流すことがないように…