連休明けの練習

4連休が明けた今日、久しぶりに選手たちと顔を合わせた。
連休明けということで、比較的軽めの練習に取り組んだ。

やはり、選手ごとに動きが全く違った。
連休中に全く何もしなかった選手は最初の軽いランニングで息が上がってしまっていた。

昨年の連休明けにアクティブレストについての記事を書いた。
選手生活を送る中で休息・休養はとても大切なことだ。
しかし、どのように休むかを知らず、ただ何もせずに休んでしまうと大変なことになる。
これまで養ってきた感覚を失い、失った感覚を取り戻すのに多くの時間と労力が必要になるからだ。
「運動は感覚だ」と先生がおっしゃったことがあったが、休み方を誤り、感覚を失った時にこの言葉の真意が胸に刺さる。

指導者としては、連休明けの練習が一番難しく感じる。
最大限選手の動きを注視しながら、失った感覚を早く取り戻すことができるようにしてあげなけらばならないと思っている。
特に今週一週間をかけて失った感覚を取り戻す作業をしながら、試合の準備を進めていかなければならない。
来週からは練習試合も始まる予定だ。

長く長い冬が明け、いよいよ春を迎えようとしている。
これまでの練習の成果を思う存分に発揮することができるように選手たちを導いていきたいと思う。

神様を恐れるということ

昨日、福島で地震が起こった。
私の姉は埼玉に住んでいるが、福島が震源であったにも関わらず、かなり揺れたそうだ。それも比較的長い時間…
相当な恐怖にかられただろう…

地震は本当に恐ろしい。
私は幸いにして大きな地震を直接体験したことはないが、ニュースを通してその恐ろしさを目の当たりにした。
今回の地震でも多くの人が被害にあっている。
一刻も早く平穏な日常を送ることができるようお祈り申し上げる。

 

さて、聖書を見てみると、「神様を恐れなさい」というたくさん書かれている。
「恐れなさい」という意味はただ単に恐いと思うということではない。

箴言の1章7節に「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」と書いてある。
この「恐れる」という言葉を辞書で調べてみると、「近づきがたいものとしてかしこまり敬う。畏敬(いけい)する。(デジタル大辞泉より)」とあった。
また、韓国語の聖書(*1)を見てみると경외(=畏敬)という単語が用いられている。
つまり、神様を恐れなさいということはただ単に恐れなさいというだけではなく、敬いなさいということ、すなわち、神様を尊く思って礼を尽くしなさいということだ!
神様を尊く思って礼を尽くすことが知識の初めだという聖書の言葉を是非とも覚えていただきたい。

さらに箴言を読み進めていくと、神様(主)を恐れること(=尊く思って礼を尽くすこと)がどれほど良いことなのかが書かれている。

  • 主を恐れることは人の命の日を多くする、悪しき者の年は縮められる。(箴言10章27節)
  • 謙遜と主を恐れることとの報いは、富と誉と命とである。(箴言22章4節)
  • 主を恐れることは命の泉である、人を死のわなからのがれさせる。(箴言14章27節)
  • 主を恐れることによって人は安心を得、その子らはのがれ場を得る。(箴言14章26節)
  • 主を恐れることは人を命に至らせ、常に飽き足りて、災にあうことはない。(箴言19章23節)
  • 常に主を恐れる人はさいわいである、心をかたくなにする者は災に陥る。(箴言28章14節)

 

イエス様も神様を恐れなさいと強力に説教をなさった。

マタイによる福音書10章28節
また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

ルカによる福音書12章5節
恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。

詩編18篇2節で「主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。」とダビデが告白したように、神様が命の根本者であられるからだ。

 

野球選手たちは監督のことを非常に恐れている人が多いと思う。
なぜか、それだけの権威・権能があるからだ。
しかし、その監督のことを何も知らない人にとっては何の恐れも抱かないであろう。いや無関心であろう。

これと同じく、神様についても、何も知らない人にとっては恐れを抱くこともないであろう。
しかし、イエス様が強力に説教なさったことは神様を恐れなさいということだった。
ただ単に恐いからという理由ではない。
私たちを救い、愛してくださる方だから、尊く思って礼を尽くしなさいとおっしゃったのだ。
絶対に誤解してはならない。

先生が日本に来られた時、日本人の神様に対する認識観をご存じで、「神様こわい」と日本語で表現なさった。
しかし、よくよく考えてみると、神様に対する認識を正しく持ることができるようにするアクションだったのではないかと推察する。

多くの人たちが愛の神様を正しく知って、本当の意味で神様を恐れ、尊く思って礼を尽くすことを願う。

 

(*1) 잠언 1:7 여호와를 경외하는 것이 지식의 근본이거늘 미련한 자는 지혜와 훈계를 멸시하느니라 [개역개정]

習慣付いたものが、まるで生まれ持ったものであるかのように錯覚している

先生の著書『自分を作りなさい』を読み進めている最中、“習慣”に関する衝撃的な内容を目にした。

習慣という日常での生活スタイルを、あたかも持って生まれたものであるかのように考えてしまうことがある、ということだ。

“習慣”は作られたもの、作ったものだ。
持って生まれたものでは決してない。
自分次第で良くも悪くも作ることができるものが習慣だ。

習慣付いたその行動を指して、生まれ持ったものだと捉えてしまっている人が少なくない。
毎日素振りを300回欠かさずしている選手がいるとしよう。
その選手を見て、努力のたまものを授かったなどと言う人がいる。
しかし、その選手は毎日素振りをする習慣を自分が作ったのだ。
毎日することは決して易しいことではないが、努力して“習慣”という傑作を作り上げたのだ!

バッティングフォームもそうだ。
生まれ持ってきれいなスイングをしている人はいない。
様々な運動の過程の中で習慣付いた結果体がきれいなスイングなのだ!

良くも悪くも「人は作り方次第」だ。
自分は持って生まれたものがないと嘆く必要は全くない。
良い習慣を作れば良いのだ!
そうすれば周りの人から「あの人は持って生まれた才能がある。」と言われるようになるだろう!

今の自分自身を見て嘆く必要は決してない。
今日から、今この瞬間から習慣作りに励めば良いのだ!
特に、「人は考えで生きていく」と先生はおっしゃったが、良い考えをする習慣をつけなければならない。
良い考え、肯定的な考えを意識的にしていくと、良い考えをする習慣がつく。

良い考えとは何か、神様の御言葉が最高に良い考えだ!
毎日毎日御言葉を聞いていけば、考えを良い考えに転換していくことができる。

“習慣”に関する認識を正し、良い習慣を作っていくことを願う。