野球の基本はキャッチボール。

野球において練習ごとに必ず行なう練習メニューがキャッチボールなのですが、
「キャッチボールが出来なければ野球にならない」と言うほどにキャッチボールは野球において基本中の基本とされています。

とはいうものの基本であるキャッチボールが非常に手ごわい。
一筋縄ではいかないわけです。

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子どもたちを見ていると、なかなかキャッチボールが上手にできない…
練習ごとにキャッチボールを行なっても行なっても暴投・捕球ミスはなかなか減らない…

そんな姿を見ながら「基本」について考えが深くなりました…

き‐ほん【基本】 

1.判断・行動・方法などのよりどころとなる大もと。基礎。「基本の型」「基本を身につける」「基本に忠実な演技」
2.(副詞的に用いて)基本的に。原則として。「基本、先発メンバーは固定している」

出典:デジタル大辞泉

キャッチボールという基本の中から野球における判断・行動・方法が出てくる、ということは納得ができますね。

確かにキャッチボールができない子どもたちは野球(試合)にならない…

 

何事においても基本が大事だと言われるけれども、
キャッチボールを考えながら一層基本の必要性を感じるようになりました。

 

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みなさんは基本をどれくらい大切にしているでしょうか?
各競技において「基本」をしっかり身につけられているでしょうか?

また、スポーツに限らず各々の生活の中における「基本」をしっかりとこなすことができているでしょうか?

人間の肉体は「基本」をせずには存在できない。
基本も寝ず、基本も食べなければ、存在できない。
ある人は「基本」すらやらずに挑戦しているうちに崩れる。
これは「知恵」ではない。「愚かな者」だ。
家を建てる時、「部屋」を大きくするといって「壁」を基本にもならないように薄くしたら、結局壁が崩れる。
<基本>は必ずしなければならない。
(鄭明析牧師の明け方の箴言より)

基本から応用へ。
この順理は忘れてずに、
いつも基本ができているのかどうかを点検したいものです。

 

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野球の基本はキャッチボール。
子どもたちがしっかりキャッチボールをできるように、
一層指導方法を研究していきます^^

“一球”に対する思い

先日、野球の試合が河川敷のグラウンドでありました。

ピッチャーをしたのですが、試合の中で、暴投をしてしまい、暴投したボールが草むらの中へ入って行ってしまいました。

試合中に仲間達が探してくれたのですが、見つかりませんでした。。。

 

試合が終わった後、そのボールを必死で探しました。

数分して、一緒に探してくれていた仲間が「見つからないからもう諦めよう」と言いましたが、僕は鄭明析牧師から教えていただいたように「ボールは命だ!」と思って探し続けました。

 

15分くらい探した結果、、、

見つかりました!

見つけた瞬間、嬉しくて嬉しくてたまりませんでした!!

試合の疲れが全部吹き飛びました!!!

 

 

さて、聖書を読んでみるとこのような箇所があります。

マタイによる福音書18:12-14
あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

『一匹の迷い出た羊』と草むらに入っていったボール“一球”とが重なりました。

 

ボール“一球”がどれほどのものかを少し考えてみると、、、

大切な試合において“一球”で勝敗が分かれることがあります。

また、“一球”によって命を落とすことになることもあります。。。

何が言いたいかというと、“一球”を決しておろそかにしてはいけないということです。

 

ルカによる福音書16:10
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。

“一球”を小さいと思うことなく、“一球”に忠実になること。

“一球”に対する思いが、結局、自分の人生にまで影響を及ぼすと僕は思います。

 

“一球”

これからも“一球”に対して忠実になることを忘れず、“一球”を『一匹の迷い出た羊』と考えて大切にしていきたいと思います。

それと、暴投しないようにもっと練習します。笑。

最近の野球界のニュースを見て

今、人々はどのような目で野球界を見つめているだろうか?

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最近、複数のプロ野球チーム内で野球賭博が行なわれていたという事実が発覚した・・・

聖書の中のいくつかの箇所で「隠れていることは明るみになる」と書かれている箇所があるが、不正腐敗が明るみになるのは時間の問題だとしみじみ感じている。

 

スポーツは、多かれ少なかれ汚い部分があって、審判の見えないところでいろんなことをやっているという悲しい現状がある。

 

モラル・倫理、そういう部分の欠如が目立つ・・・

 

摂理スポーツの著者が好きな聖句一つが思い浮かぶ。

ローマ人への手紙14章19節
・・・平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。

 

もっとスポーツ選手が「徳を高める」ために努力してほしい。

 

「プロ」と言われる人たちは特に、プロとしての競技能力だけでなく、徳を備える必要があると思う。

世間体とかではなくて、「スポーツ」という素晴らしい芸術をする人間として胸を張れるようになってほしい。

そう切に願っています。