野球・甲子園と人生

今週、待ちに待った連盟からの公示が出た。

「練習試合許可」
「6月18日より大会開催決定」

2月後半から練習自粛・個人練習を経てやってきたが、
この約3カ月間は先の見えない真っ暗なトンネルの中にいたようだった。

そうして今週、試合許可の公示を耳にした時には、
真っ暗なトンネルの出口の光を見たかのようだった。

一方、日本では夏の風物詩と言える全国高校野球大会・甲子園が中止になってしまい、
高校球児の心中を察すると胸が張り裂けそうな思いになる。

目標や夢を自分の努力以外の要因で達成することができなかったことほどもどかしいことはなく、
言葉にならず、どこにもぶつけることのできない感情のやり場を探すことになったのではないだろうか。

しかし、そんな時こそ、根本を考えないといけないのではないか。
野球・甲子園というものが自分の人生にとって一体何なのか?と。

 

私も高2の夏の甲子園を奪われ、高3の春の甲子園の出場機会がなくなった経験がある。
当時はあまり深いことは考えず、最後の高3の夏の甲子園に向けて頑張れば良いと気持ちを切り替えた覚えがある。

高3の夏は地方大会で負け、甲子園出場の夢・目標を達成できなかったのだが、
その時にもやはり、次のステージで野球をどのように続けていくのか?ということしか考えなかった。

自分の考えの枠は野球という枠の中から抜け出せなかったのだ。

 

「野球のための人生ではなく、人生のための野球だ」

この言葉は誰もが一度は耳にしたことがあると思う。
しかし、本当にそう思って野球をしている人がどれくらいいるだろうか?
もっと突き詰めて、人生とは何なのかを分かった上で野球をしている人がどれくらいいるのだろうか?

野球界の先輩方が築き上げてきた甲子園大会100年という伝統を否定するつもりはさらさらない。

たくさんの名将と呼ばれる指導者やプロ野球選手が輩出されてきたことを見ても、
甲子園というモノが野球界に大きな影響を及ぼしてきたことは間違いない。

だからこそ、大きな影響を及ぼすモノだからこそ、
そのモノに対する、接する観が間違ってしまえば大変なことになる。

 

甲子園というモノがまるで自分の人生のすべてになっていないだろうか…

選手のみならず、指導者の方々も含めて..

歴史は消すことはできない。
しかし、これまでの歴史を教訓にして新しい歴史を作っていくことはできる!

もちろんその一員として私も立ち上がりたい。
まずはこの文章を通して野球に携わる人たちが野球・甲子園というモノに対する観を振り返り、
自分の人生を今一度考える契機になれば幸いだ。

摂理に出会ってからの7年・・・

今日は私にとって特別な日です。

ちょうど7年前のこの日(12月9日)、
私は初めて摂理の礼拝に参加しました。

その日の御言葉はどんな御言葉だったかなぁと振り返ってみたのですが、
“私”という人間の価値を完全に回復させてくださった御言葉でした。

その御言葉は「同じ万物も人も、使う人の方法、それひとつによって運命が決まってしまう。」でした。

「同じ一本の松の木」も、使う人の考えと思考によって、使う人の方法通りに使われます。
もしこの松の木がきこりにかかれば、「薪」として使われます。
もしこの松の木が先生のような盆栽の専門家にかかれば、根こそぎ掘っていって尊く手入れをしてあげるので、死ぬときまで「作品」として使われます。

自分はどんな姿なのか、自分自身を見直しなさい。
自分を見て無条件、「大したものではない。」と言うな。

あなたたち自身の人生も、尊いのに正しく見ることができずにいる。
今日の御言葉を聞いて見直しなさい。

巨木の人生を切るな。
石、木など、様々な万物も人も、ただ私御子の計画通りに使うように、私に委ね、私の方法通りにしよう。
万物の価値も人の価値も、あなたたちは知らない。
それに対する鑑定はただ命の救い主である私御子がする。

 

私が最高に気分を害する時があります。
それは、自分のことを価値なく思われていたり使われていると感じたりする時です。

そんな“私”が“私”を見る時に「取るに足りない人、捨てるしかない・使い道のない人だ」と思ってしまっていたので非常事態でした。

今のままでは絶対にいけない、変わりたい、新しい世界がないものか?と切なる思いで生活をしていましたが、
実際にどうしていいのか、何をしたらいいのか全く分からずにさまよっていました。

アモス書8章11~12節
主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。
彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。

そんな中、御言葉に出会い、摂理に出会い、最初に受け取ったメッセージがこの御言葉でした!

(その当時の私の状況は『はじめに』をご参考ください)

私の人生を価値あるように考え、尊く使っていけるように神様が導いてくださったのです!!

この日から毎日御言葉を聞きながら7年という長い歳月が経ちました。

7年間を回想してみると…日をまたぐ研究生活、国際交流、留学、海外就職、結婚、単身赴任…etc
本当に様々なことがありました…

そしてこの7年の間に、私の人生の中でも特にショッキングなことが2つも起こりました。

(今回赤裸々に書こうと思うのですが、この文章の目的は、私の人生をみなさんに分かってほしいということではなく、摂理で信仰生活を送りながら、どんな人生の問題にぶち当たったとしても、祈るといつも神様が助けて導いてくださったということ、先生が御言葉で答えをくださって根本的な解決ができるように導いてくだったということを証することです。ご理解いただき読んでいただけたら幸いです。)

 

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一つは父親がガンを患ったことです。
脇や首に違和感を感じて病院に行ったところ、リンパ節のガンだと診断を受けたそうです。

父親は私に心配をかけまいと詳しい状況は知らせてくれませんでしたが、
母親が私と2人きりになったタイミングでお父さんがガンだと教えてくれました。

その時、私は母親に神様を信じていることを告白し、
お父さんを必ず治してくれるから一緒にお祈りしようと言って、
お父さんが治るように神様にお祈りを捧げました。

また、先生にも父親のためにお祈りしていただきたいと依頼をしました。

 

結果…

 

治療はうまくいって、無事に完治しました!

治ってすぐに父親とボーリング・卓球をしたのですが、
健康な身体に戻って元気にスポーツをしている父親の姿を見て、神様に心から感謝しました!
ハレルヤ!!

使徒行伝16章31節
ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。

 

 

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もう一つは妹が事故で亡くなったことです。

亡くなったという知らせを聞いて、私は病院に直行しました。
信じられませんでした。

幅4,5メートルくらいの比較的浅めの川に車ごと落ちてしまったと…
事故の正確な原因は今も分かっていません…

妹の体にはキズ一つ付いていませんでした。
神様が最大限助けようとしてくださったんじゃないかと思うのですが…

人間の責任分担を果たせなければ事故は起こりえるので、
もしかしたら本人に何かあったのかもしれません…

 

家族のために切実に祈ってこれなかった自分を責めました。
とにかく何が何でも妹の霊の救いだけは、と思い、祈りました。
(教会のみなさんも心を込めて祈ってくださいました…感謝します…)

 

両親にも妹のために祈ろうと勧めましたが、
両親は気が気じゃなく、(当然そうですよね…)
聞いてくれませんでした…

それどころか父親は声を張り上げ「結局信じても何にも助けてくれないじゃないか!」と捨て台詞を言ったので、
私の口からはもうそれ以上なにも言えなくなりました…
(両親はある宗教の信者でした…)

両親は本当に辛い思いをしたと思います…

 

その後、歳月が過ぎ、私は結婚の祝福を受けました!
さらには、娘も授かるようになりました!!

娘には神様が名前をつけてくださいとお祈りをして、来た感動の通りに名前を付けました。
(もちろん奥さんとも相談をしました。)

母親からラインが来ました。
「名前、考えてつけてくれたんだね、ありがとう」と。

娘の名前の漢字一字が妹と同じだったため、
母親は気遣ってくれたことに感謝するラインを送って来たのでした。
(私は正直のことろそこまで考えていませんでした)

命の祝福をしてくだり、両親の空いた穴を埋めてくださる神様の愛だと確信します!!

 

この記事を書きながら、ヨブ記に登場する中心人物・ヨブの生が思い出されました。

義人(神様を信じ愛する人)だとしても困難・患難に会う。
しかし、困難・患難の中でも変わらず神様を信じて愛するならば、
神様は困難・患難の後にこれまで以上の祝福を注いでくださる。

まさにヨブのような歴史が私にも起こったのだと思っています。

もちろん過去のキズは残ります。
でもそのキズを、完全に、十二分に、祝福で覆ってくださる神様であるということを私は確信します!!

 

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様々なことがあった7年間でしたが、
どんな人生の問題にぶち当たったとしても、
祈るといつも神様が助けて導いてくださったし、
御言葉で答えをくださって根本的な解決ができるように導いてくださいました!

過去の歴史を見たとき、人間自らはいつも根本的な答えを見つけられず、根本的な疑問を解くことができなかった。
ただメシヤが来たとき根本的な答えを見つけ、疑問全体が解けた。

人々はそれなりに答えを探し回るけれども、メシヤに会うまではみんな疑問に閉じ込められている。

私は摂理に来てから一度も問題に閉じ込められた状態で生活したことはありません!

もちろん様々な問題にぶつかりはしました。
進路の問題、家族の問題、結婚の問題などなど…

しかし、その都度、先生は御言葉で答えをくださいました!
また、祈ることで神様が様々に働きかけて下さり解決できるように導いてくださいました!!

これからの人生もそうであると私は信じます。

 

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摂理で生きるこれからの人生、本当に楽しみです。

7年間の総決算として書かせていただきました。

最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。

辛く苦しくても「一度しかない」と思って・・・

オリンピック競技を観ながら、
アスリートたちが大観衆の中で自分の持てる力を発揮できていることに驚きを隠せません。

プレッシャーに押しつぶされそうになるだろうし、
食事が喉を通らないほどの極限状況と言ってもいいのではないかと思います。

それを乗り越える精神力は
それまでの練習・努力の賜物と言えますね!

 

さて、オリンピックという機会は4年に一度。
競技寿命が短かったり、競争が激しかったりすると、
もし出場することができたならば一生に一度しかない機会となります。

そうだとするならば、
どんな状況だとしても、「一生に一度の機会だ!」と歯を食いしばってやれるのではないかと考えます。
(もちろん、文章で表現するほどに簡単なことではありませんが…)

 

「一度しかない」と考えることによって
物事を突き進めていく力を得ることができることは、
アスリートのみならず、誰であっても活用することができます。

 

もし、本当に一度しかないならば、
今のその仕事、そのように行なうでしょうか?

 

もし、本当に一度しかないならば、
今のこの時間、そのように過ごすでしょうか?

 

もし、本当に一度しかないならば、
目の前にいるその相手にそのように接するでしょうか?

 

もし、本当に一度しかないならば、
(いや、一度しかない!)
この人生、このままでいいでしょうか?

 

先生は「時間を貴重に思って惜しんで使いなさい」とよくコーチをしてくださいます。
時間を貴重に考えるとは、具体的には、このように「一度しかない」と考えてみることが一つの方法としてあると思います。

みなさん、「一度しかない」と本当に思って、自分自身を省みてみてはいかがでしょうか?

(固く考えることなく、良い意味での緊張感を持ってください^^)

 

アスリートの姿をうらやましく思うだけではなく、
人生のアスリートとなることをお祈りします。