人には長所と短所があると思う。
長所は生かし、短所を直すことができればどれほど良いだろうか?
私は野球の指導をしながら、気を使っていることがある。
それは選手の短所ばかりを指摘しないようにすることだ。
短所ばかりを指摘してしまうと、毎日が指摘・指摘・指摘の連続で選手が苦しくなってしまうからだ。
特に年齢が幼い場合にはその指摘に嫌気がさして野球が嫌いになってしまう…
逆に、短所を全く指摘しないことも良くない。
その短所によって、持っている長所が死んでしまう場合があるからだ。
あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。
(箴言27章5節)
その人のことを本当に思うならば指摘してあげることだ。
しかし、指摘をするか、しないか…このバランスは非常に難しい。
私はこのことで指導の在り方について悩みに悩んでいた…
鄭明析(チョンミョンソク)牧師は説教の中でこのようにおっしゃった。
ただ見たら普通に見え、何でもないように見えても、探してみたら「極的な長所」があります。「持って生まれたもの」があります。
しかし「極的な短所」に「長所」が遮(さえぎ)られています。
みんな「時代の御言葉」でつくってこそ、<持って生まれた貴重なもの>と<長所>を貴重に使うようになります!
(2020/11/08 主日の御言葉より)
短所に長所が遮られているという認識を選手たちが持てるようにすれば、喜んで短所を直していくのではないだろうか。
「長所を生かすために、短所を直すと良いよ」と、指摘する時には長所を添えるようにしたら良いのではないかと指導のヒントを得た。
人がつらく思い、難しく思うことの中の一つが「自分の短所を直し解決すること」だと鄭明析牧師はおっしゃったが、
長所が輝くようになる希望を持つことができれば、自分の短所を直し解決する作業も希望に感じると思う。
人は誰でも指摘をされれば気分が良くはない…
しかし、その指摘が自分の運命を好転させる契機になるかもしれない…ということは頭の片隅に入れておかなければならないと思う。
指摘する側に立つ私の指摘が全て正しいとは思わない。
だからこそ指導者という立場の人間は日々研究し努力しなければならないと深く戒めている。
指導者のエゴは自分の思い通りに人が動くようになること…
自分の思い通りに人を作るのではなく、本当にその人のことを思い、遮られている長所を見出していく真実な指導ができるように努めていきたいものだ…
たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
(コリント人への第一の手紙13章1節)
選手のことを本当に貴重に思って、短所を直し、長所を輝くようにする野球指導者が多く誕生することを願ってやまない。