命を懸けて行う者は、命を懸けて行う者を認める。
人は自分自身が経験したことのない事柄については、
理解の範疇を超えてしまう。
少しでも経験したことのある事柄については、
その少しの経験を通して理解することができる。
例えば、毎日10時間以上練習をする人がいるとしよう。
自分が1週間でもいいので毎日10時間以上練習した経験のある人ならば、
それがどれほど大変な
ことであり、
どれほど切実な思いを持って取り組んでいるのかが分かるであろう。
しかし、自分が1日も10時間以上練習をした経験のない人ならば、
「なんかキツそう。。。」とか、
「なんでそんなにバカみたいに毎日練習するんだ?」とか、
「もう少しほかのことをやって時間を効率よく使ったらいいんじゃないか?」とか、
その毎日10時間以上練習をする人の“心情”を感じることができず、
引いた目で見てしまうことであろう。
さて…
聖書の中にはこのような箇所がある。
マタイによる福音書22章35-38節
そして彼らの中のひとりの律法学者が、
イエスをためそうとして質問した、
「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
イエスは言われた、
「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
神様を心と精神と思いを尽くして愛している人を見たとき、
自分が神様を心と精神と思いを尽くして愛した経験のある人は、
そのことがどれほどのことなのかが分かるけれども、
自分が神様を心と精神と思いを尽くして愛した経験のない人は、
引いた目で見てしまい、
その人の“心情”に迫ることが難しいのではないかと思う…
命を懸けて行う者は、命を懸けて行う者を認める。
命を懸けて行なっている人を見たならば、
自分も命を懸けて行なってみてから、
ああだこうだとモノを申す。
そのような矜持を持って生きていきたいものだ。