一つの聖句から犠牲と愛について考えてみる

表題の聖句はこちらです。

 

今日は犠牲と愛について考えてみたいと思います。

 

野球にバントという戦術があるのはご存じかと思います。

口頭では「バント」と単純に言いますが、記録にはこう書かれます。

 

「犠打」

 

犠牲の意味が入っています。

英語では「sacrifice」。

英和辞典を引いて驚いたのですが、一番目の訳が「神にいけにえをささげること」だそうです!

 

さて、僕は「犠牲」についてたくさん考えました。

高校野球を知っている方は良く分かると思いますが、強豪校ではレギュラーになれずに高校3年間を終える子がたくさんいます。

でもその子たちがスタンドで全力で応援しているんです!

練習ではボール拾いを積極的にしたり、バッティングピッチャーをしたり、さらには、ユニフォームを洗濯したりしているんです!

こんなにも犠牲になっている人はこの世の中にいないんじゃないかなぁって思うくらいに。

 

鄭明析牧師はこのように教えてくださいました。

行なうことが愛だ

 

 

もちろんどのような心でやっているかまでは分かりませんが、このような犠牲を少しの愛の心もないのにそのようなことが行なえるでしょうか?

 

 

犠牲・・・

さみしいかな、犠牲というモノは人には分かってもらえないですね・・・

 

(してあげたのに・・・)

(気づいてくれない・・・)

 

こんな心の声が聞こえます。

でも愛するから続ける。

気づいてくれなくても、分かってくれなくても。

愛するから犠牲になる。

 

聖書を知らない人でも、「イエス・キリスト」という名と結末は知っているのではないでしょうか。

最後は十字架の犠牲でこの世を去るのですが・・・

 

ヨハネによる福音書15章13節。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。

 

こう残していったんです。

究極的な愛の犠牲は自分の命を捨てること・・・

 

 

 

と、犠牲と愛について 考えて見ましたが、あまりにも深いテーマです。

この世の中を見てみると、大なり小なり様々に犠牲になっている方がいると思います。

命を捨てるほどまでに労苦している方も多いと思います。

その一方で、自分が何でこんな目に合わないといけないんだ?なんて心の片隅に感じている方も多いと思います。

 

愛する心で犠牲になっている反面、どこか心苦しくなってしまっている方々、ぜひとも聖書をたずねてみてください。

この聖句の背景を深く読むことで今の自分の犠牲になっても報われない何とも言いがたい心が解かれると思います。

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