今日12月9日は初めて摂理の主日礼拝に参加した日

今日12月9日は初めて摂理の主日礼拝に参加した日だ。
今から8年前の2012年12月9日のこと。
(摂理に来て以来、日付(時)をかなり意識するようになったため、特別にメモをしていなくても節目の日付はすべて記憶している。)
スーツ専門店でストライプのスーツを新調して臨んだことを覚えている。

その日はとても寒く、私は白シャツの中にお気に入りのSSKのハイネックのアンダーシャツを着た。
当然、白シャツの首元から何か出ていては可笑しな格好なのだが…
私はまだまだ幼かったのだ…
先輩に「インナーが首から出てるよ」と言われて、そこで気づいた…
ハイネックを中に折り曲げても折り曲げきれず、そのまま礼拝に臨んだことは記憶に新しい。
(その時、神様はクスっと笑って覆ってくださったと信じている…)

 

さて、今週の御言葉の主題が「感謝と栄光」だった。
もらったものがあるから感謝しなさいと先生はおっしゃった。
この8年間を振り返り、神様からもらったモノを様々に考えてみた。

特に大きなことは自分が望んでいたモノをもらったことだとおっしゃった。
自分が望んでいたモノ、その一つに「野球で飯を食う」という夢があった。
プロの道は閉ざされた…いや、本当の意味で自分が望んでいたことは「生涯野球に携わりながら生計を立てていくこと」だった。

その夢が摂理に来て叶ったのだ!
これは紛れもない事実!!
神様、感謝します!!!
(摂理に来ていなかったらその夢が叶えられていなかったかどうかは分からないが、救いを得て、かつ、自分の夢も実現することができたのだから、それ以上のことはない!)

家庭を持ちながら、野球一本で生計を立てていくことは易しいことではない。
自分の好きなことを仕事にできたらそれ以上の幸せはない、といった言葉を聞いたことがあるが、ただ好きなだけでは仕事にはならない。
野球好きはこの世の中にいくらでもいる。
しかし、野球好きで野球一本で生計を立てている人がどれくらいいるだろうか?

私が望んでいたモノは札束でもなければ金塊でもない。
生活そのものだった。
自分の望み通りの生活ができることほど幸せなことがどこにあるだろうか?

先生は「実力がないといけない」とおっしゃった。
いくら神様が祝福をしてくださって願っているものを受けたとしても手に負えるだけの実力が自分になければ自分自らがその祝福を手放してしまう…

人々はよく勘違いをしている。
神様が祝福をしてくださらないのではなく、自分がその祝福を手に負う責任を果たせていないのだ…
私が野球一本で生計を立てることができるようになったのは、その最低限の責任を果たした、というだけだ…

今もらっているものは、自分の力と能力では解決できなかった。
解決できなくて得られなかったなら、どんな境遇だったか、考えてみなさい。
もらえていなかった時より100倍、1000倍よくなったことを悟って、感謝感激し、愛して生きなさい。
間違いなく神様と聖霊様と主がくださったものだ。
(2020年12月7日主の御言葉より)

アーメン。
摂理9年目に突入するが、この御言葉を完全に自分の哲学にして生きていきたい。

酸っぱくなったキムチ

自家製キムチの発酵が進み、かなり酸っぱくなってしまった。
酸っぱくなったキムチはごま油を混ぜたり、火を通して砂糖を混ぜたりすれば酸っぱさを抑えることができると言う。
しかし、我が家のキムチは相当発酵が進んだのか、酸っぱさを抑える術を施してもダメだった。
元々酸っぱいものが苦手な私にとっては致命傷だ…

発酵が進んだキムチはどんなにあがいても元には戻らない…
「後悔は後でする(후회후에 한다)」と先生はおっしゃったが、本当にその通りだ。
酸っぱいキムチを食べて酸っぱい顔になるくらいならまだ良いが、人生で酸っぱい顔をして生きたくはない…

 

酸っぱいキムチを生かす方法が他にあるという。
酸辣湯(サンラータン)のような酸っぱいスープを作るのに利用すれば良いとのこと。
もちろん私は酸っぱいものが苦手だからその術はとらない。

ハチミツ漬けにでもしてみたらどうか?と私なりの方法を頭の中で考えている…
もったいないが未練なく捨てることも選択肢の一つに入れている…
酸っぱくなったキムチをどうしようかと頭を悩ます時間自体がもったいないとも思っている…

酸っぱくなったキムチを通して、「時を逃すな」という悟りを得たことが不幸中の幸いだ。
コロナ禍の中でも不幸中の幸いだと言えるように、残りわずかとなった2020年を全力で駆けたいと思う。

「直す」作業

本格的に冬トレが始まり、各自、自分の良くない習慣を「直す」作業に取り組もうと選手たちに話をした。

投球フォームや打撃フォームはなかなか直らない。
試合が無いこの冬に時間をかけて取り組まなければならない部分だ。

練習の大半は「直す」作業だと言っても過言ではないだろう…
試合よりも「直す」作業に苦戦している選手が多いかもしれない…

「直しさえすればよい。」
これが私が端的にたどり着いた結論だ。
あれこれとできない言い訳を探す必要もない。
細かいことに神経を使う必要もない。
直しさえすればよい、という淡白な思考が良いのではないかと思っている。

車も修理してこそ使うことができるように自分自身を直すことだと先生は人生のコーチをしてくださった。
労力は要るが、早く直してしまえば、その分だけ、直した自分を持って活動することができる。

また、いち早く直すことを最近コーチングの中では強調するようにしている。
もちろん、一日二日で直るものもあるが、長い時間が必要な場合もある。

自分がどれだけ心を固くし、絶対直すという信念を強く持てるのかが「勝敗」を分けると思う。

とは言うものの、実際には「直す」作業で自分に失望し、リタイアする場合が少なくない。
直すことができずに、自分は実力がないのだと思ってしまうからだ。

実力が問題ではなく、体質が問題だ。
(2014年5月11日主日の御言葉より)

先生は問題の本質を突かれた。
実力だと思う問題の根本は、実は、体質の問題であることが大半だ。
体質を改善すればよいのだということをまずは深く認識しなければならない。

また、「直す」作業、すなわち、体質を改善するには段階が必要だ。
階段を一段ずつ上がるように、段階的に、漸進的にやらなければならない。
これも先生が教えてくださった方法だ。

例えばいきなりグランド10周を毎日走ることを習慣にしようとするとハードルが高すぎて挫折する。
最初は3周くらい、いや、1周から走り始めてもよいだろう。
そうして無理なく、負担感を感じなくなったら5周、次は7週と上げていく。
そうして10周を走れるようになるのだ。

現代社会は素早い変化を求められることがある。
しかし、物事の理は、「万事に飛躍なし」だ。

 

指導する側も段階的に指導することに留意しなければならない。
結果を求めるがゆえに、急ぐあまり階段を2段3段4段飛ばしで上る途中で足をくじくように、選手がつぶれてしまう。
私も深く戒めて、冬トレに臨みたいと思う。