過程の中で楽しむこと

昨日、選手と共に食事をした時のこと。
私は少し遅れてその場に到着したのだが、ある選手がもうすでに食べ終わっていた…
彼はいつも食べるのが速く、5分もかからないことが大半…
もっと味わって食べた方が良いのではないかと助言すると、お腹を満たせば良いんですとの回答が返ってきた…

この一件を通して、人生もこのようにこうだということを深く悟った。
目的に向かって突き進むことは重要なことだが、その過程において何も感じるものがないとするならばどうだろうか?

先生は過程の中で楽しみ、過程の中で得ることを教えてくださった。
先生は故郷を開発されながら、サッカーもし、皆と共に食べ飲み、様々な行事も行なわれた。
全部作ってから使おうとするのではなく、過程の中で享受することを示してくださった。

日々の生活の中で何か面白くなく、虚しさを感じることがあるだろうか?
ご飯を食べる時に、よく噛んで味を味わうように、人生もそのように生きれば変わってくるのではないかと思う。
野球においても、ただ勝つことだけに向かって突き進めるのではなく、過程の中で寝食を共にしながら楽しむことが大切だろう。

野球ボールの行末

先日、練習中に近隣に住む方が来てボールを一つ貸してくれと言われたので貸した。
私は深く考えずに、何に使うかも聞かずにボールを一つ貸した。

その方はボールを犬の遊び道具として使った…
当然、ボールは犬の唾でベタベタ…

心から悔いた。
まさか、そんな風に貸したボールを使うとは…想像もつかなかった…

 

先生は以前このように価値について御言葉をくださったことがあった。

物も人間もみんなそれなりの価値がある。
しかしどれだけその価値を持って使うかによって、相手になるものもその価値が左右される。

(自分がどれだけ価値を分かって使うかによって相手の価値も左右される。)
自分自身を価値ある使い方をする人だけが、他の人のこともそのように価値ある使い方をする。
(豚に野球のボールを与えたら、噛みちぎって食べた。)
2013年2月4日主の御言葉より

先生はボールが命だとおっしゃった。
私はその瞬間、ボールが命だということを忘れてしまった。
結局、価値を分からない人に貸してどうなったか?
非常に残念な結果になって帰ってきた…
いや、帰ってきたのではなく、喪失したのだった…

 

聖書にもこのようにある。

聖なるものを犬にやるな。
また真珠を豚に投げてやるな。
恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
マタイによる福音書7章6節より

貴重なモノ、価値あるモノを絶対に手放さないように今後これらの御言葉を戒めたい。

「時間をかけて指導する」という愛の表現

日本で言えばエリート教育と位置付けるに値する練習プログラムで選手を育てることに熱を注ぐ毎日が続いている。
平日学校が終わってから4,5時間の練習時間を確保し、夕食を挟んで、夜寝る直前まで練習することもある。
私自身、コーチとして倒れそうになることも正直あるが、これほどまでに選手に手をかけてすることができる原動力は何だろうかと不図考えが深くなった…
一流の選手に育て上げたいという思いもあるが、それ以上に選手たちへの愛情がなければここまで時間をかけて指導できない、という考えに辿り着いた。
子どもを育てる時、苦労することが本当に多いが、子どもへの愛情があるからその全てを乗り越える母親の心情とまでは言えないかもしれないが、そのような愛情が原動力だと思う。

先生は、本当に多くの時間をかけて、御言葉で様々に指導してくださっている。
祈り、御言葉を受け取り、御言葉を伝える…この過程全てを時間で計算したら、おそらく母親が子どもを見る以上の時間だろう…
時間をかけることは、別の言い方をすれば、愛するということではないだろうか…

そのようなことを考えていたら、日頃の疲れも何でもないように感じてきた。

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。(ガラテヤ人への手紙6章9節)

刈り取る時は非常に待ち遠しい。
たゆまず、うみ疲れず(うんざりして疲れず)、その行ないを続けることは決して易しいことではない。
しかし、愛情ならば可能だと思う。
また力を出して明日も選手たちと向き合いたい。