監獄に入った理由は濡れ衣(ぬれぎぬ)

最近、聖書を一生懸命読んでいる。
分厚い本との戦いには若干の苦戦…

 

聖書、今から何千年も前に書かれたものなのに、
今現在へのメッセージがその中に書かれていることは本当に驚きだ。

「歴史は繰り返す」と言われるが、本当にそうで、
聖書を通して歴史をしっかりと学べば、過去の歴史と同じ過ちを犯すことを避けることができるし、
もしろん、成功の歴史をさらに進めていくことができる。

さて、昨日読んだ聖書の内容を紹介したいと思う。

ヨセフという人物。
彼は兄弟に嫉まれ、エジプトに奴隷として売られるようになってしまった。
しかし、主が共にされ、エジプトで栄えるようになり、王のそばに使えるようになった。

そんなある日、王の妻がヨセフに関係を求めて近寄った。
しかし、ヨセフは拒んだ。何度も。
そんなヨセフに怒りを覚え、ヨセフの着ていたものをもって「私を犯そうとした!」と王の妻は王に告げた。
そうしてヨセフは監獄に入れられるようになってしまったのだ。

(かなり簡潔に書いたので、詳しくは創世記の39章をご覧いただけたら。)

そう、タイトルにもあるように「監獄に入った理由は濡れ衣」だった。

ヨセフには罪がない。
しかし、王の妻のでっち上げによって濡れ衣を着せられることとなったのだった…

 

この歴史の出来事から自分たちは何を学ぶべきだろうか?
今現在に何の教訓をもたらしているのだろうか?

 

冤罪…

 

冤罪について少し調べていたら心が痛くなった…
こちらの記事、時間があれば是非ともご一読いただけたら…

「時間が止まった私、冤罪が奪った7352日」
https://news.yahoo.co.jp/feature/832

 

真実なものは必ず明らかになると僕は信じている。

人はどんな時に無念な思いをするのか?
それは認められない時、だと思う。

学校でも、会社でも、自分が認められない時には本当に無念だ…

自分の主張は間違うこともあるから認められないこともある。
でも、本当にやっていないという事実を語っても認められない時にはどうしたらいいのだろうか…

「やっていないものはやっていない。」
それ以外に口から出て来る言葉があるだろうか…

 

先生について。
僕は、その真実な言葉と行ないを見てついていく。

「摂理の鄭明析牧師10年 鉄のカーテン逆境学ー台湾有力紙 新新聞に掲載」
https://providence-blue.com/about-providence/jungmyungseok/28402

真実なものは真実なものとして認めるられる社会になることを祈る。

団体スポーツで大切なことは「息が合う」こと=「心・考えと行ないが合う」こと

団体スポーツで大切なことは「息が合う」ことだと思う。
「息が合う」と言ったときに、具体的にどのようなことを意味するだろうか?

絶妙なタイミングでパスがつながった時に「息が合った」と言えるし、
言葉は交わしていないけど、バッテリーのサインがピッタリ合った時に「息が合った」と言える。

すなわち、
「息が合った」と言う時には「心・考えと行ないが合った」ということだ!

日頃から様々なプレーについて互いに話をしながら吟味しながら考えを合わせる。
そして、その考えを実践することができるように技術も磨くし、体力も付ける。
そうして初めて「息が合う」プレー、すなわち、「心・考えと行ないが合う」プレーが生まれるわけだ。

 

たくさん経験したことがあると思う。
彼はいつも絶妙にタイミングは合うけれどもキックミスでパスが繋がらない…
どんなボールも受け止めてくれるけれども、いつも自分の投げたいボールと違うサインを送ってくるのでかみ合わない…

 

そうやってスポーツ場面で経験したことは生活でも生きてくる。
職場での生活、夫婦の生活、様々な場面において、
心・考えと行ないを合わせるときに上手くいくもの。
信仰生活をすることにおいても同じだと先生が教えてくださった。

 

団体スポーツで大切なことは「息が合う」こと、すなわち、「心・考えと行ないが合う」ことだ。
ぜひとも意識してやってほしいし、
平昌オリンピックの団体種目を観戦する際にはこのような視点で観戦していただけたら一層団体スポーツの深みに触れることができると思う。

オリンピック選手たちが背負うモノ~国の代表~

なかなか忙しい日々。
高校・大学時代を彷彿させる野球漬けの日々。
でも、確かに高校・大学時代と違うことは、プロだということ。
選手たちの選手生命が自分の手にかかっている、それ相応の責任がある。
だから自分がプレーすることよりも3倍はもっと神経を使う。

 

さて、平昌オリンピックが開幕して、各競技がヒートアップしてきている。
そんな最中、オリンピックに出場する選手たちが背負うモノについて考えてみた。

オリンピックに出場する選手たちは国の代表。
国の代表ということが一体どれほどのことなのか…

僕は国の代表として競技に参加したことはないが、
今、異国の地で野球のコーチ生活をしながら国の代表という重みを感じている。

なぜならば、
自分がどうするかによって、日本人のイメージが決まってしまいかねないからだ。

自分ひとりを通して「日本人は・・・」という観念を人々が持つようになることもあり得るのだ。

高校・大学時代にはよく教育された。
自分ひとりの行ないによって、「あの高校の野球部は・・・」「あの大学の野球部は・・・」から発展して、
「あの高校は・・・」「あの大学は・・・」と良くも悪くも人々の認識を作り出してしまう。
自分ひとりの行ないによって…

 

オリンピック選手たちは本当に大きなモノを背負ってプレーしていると思う。
国の代表という、その重圧は言葉では言い表せないだろう。
でも、だからこそ自分の力以上のモノを発揮できると思う。
使命の力とでも言えるだろうか…

 

みなさんは自分の使命について考えたことがあるだろうか?
自分は何のために生まれて来たのか?
せっかくの人生、何を残すことができるのだろうか?

先生は残るものがあってこそ希望があると教育してくださった。
自分の趣味生活に自分の人生一生を捧げて終わって良いのか?
今のままでいいのか?

オリンピックの選手たちのプレーする姿を通して、
自分を奮い立たせる機会に。

あなたの背負うものは国の代表よりももっと大きなモノかもしれない。