確認は命だ~スポーツ店が休みだった件(くだり)~

行き付けのスポーツ店があるのですが、
久しぶりに足を運びました。

そのスポーツ店に行くまでには1時間かかるし、
電車代だけでも往復1000円以上かかるので、
行くなら本当に良い時間を過ごさないともったいないと思っていつも気合を入れて行きます。

今回はいつもよりも気合いを入れて、
「もっと店長と仲良くなって一緒に仕事をやっていくところまで話しを持っていこう!」と意気込んで、
構想も練って、お土産も買って持って向かいました!

最寄りの駅に到着して空を見上げると、
雲一つない快晴だったので、
神様に感謝しながら、
自分も気分が良くなって賛美もしながら、
スポーツ店へ向かいました。

 

が…

 

ですが…

 

 

定休日…

 

え…

 

思わず自分に「やってるのかどうか確認しろよ!」ってツッコミました…

 

神様~教えてくださいよ~なんて、
絶対に恨みはしません。笑

事前に「確認は命だ」と先生にも教えていただいていたわけですしね…

 

行なう度に100%確認しなさい。
確認せずに行なったら、狂犬に噛まれるようになる。
全てのことにおいて確認だ。

僕の中では狂犬に噛まれるよりも“イタイ”ミス…

 

確認は本当に命です!
御言葉は転ばぬ先の杖です!

 

この失敗を教訓に二度と時間とお金を無駄にしないように頑張ります…

みなさんも、様々に失敗をしないように是非とも「確認は命だ」と脳に刻んでくださいね^^

監獄に入った理由は濡れ衣(ぬれぎぬ)

最近、聖書を一生懸命読んでいる。
分厚い本との戦いには若干の苦戦…

 

聖書、今から何千年も前に書かれたものなのに、
今現在へのメッセージがその中に書かれていることは本当に驚きだ。

「歴史は繰り返す」と言われるが、本当にそうで、
聖書を通して歴史をしっかりと学べば、過去の歴史と同じ過ちを犯すことを避けることができるし、
もしろん、成功の歴史をさらに進めていくことができる。

さて、昨日読んだ聖書の内容を紹介したいと思う。

ヨセフという人物。
彼は兄弟に嫉まれ、エジプトに奴隷として売られるようになってしまった。
しかし、主が共にされ、エジプトで栄えるようになり、王のそばに使えるようになった。

そんなある日、王の妻がヨセフに関係を求めて近寄った。
しかし、ヨセフは拒んだ。何度も。
そんなヨセフに怒りを覚え、ヨセフの着ていたものをもって「私を犯そうとした!」と王の妻は王に告げた。
そうしてヨセフは監獄に入れられるようになってしまったのだ。

(かなり簡潔に書いたので、詳しくは創世記の39章をご覧いただけたら。)

そう、タイトルにもあるように「監獄に入った理由は濡れ衣」だった。

ヨセフには罪がない。
しかし、王の妻のでっち上げによって濡れ衣を着せられることとなったのだった…

 

この歴史の出来事から自分たちは何を学ぶべきだろうか?
今現在に何の教訓をもたらしているのだろうか?

 

冤罪…

 

冤罪について少し調べていたら心が痛くなった…
こちらの記事、時間があれば是非ともご一読いただけたら…

「時間が止まった私、冤罪が奪った7352日」
https://news.yahoo.co.jp/feature/832

 

真実なものは必ず明らかになると僕は信じている。

人はどんな時に無念な思いをするのか?
それは認められない時、だと思う。

学校でも、会社でも、自分が認められない時には本当に無念だ…

自分の主張は間違うこともあるから認められないこともある。
でも、本当にやっていないという事実を語っても認められない時にはどうしたらいいのだろうか…

「やっていないものはやっていない。」
それ以外に口から出て来る言葉があるだろうか…

 

先生について。
僕は、その真実な言葉と行ないを見てついていく。

「摂理の鄭明析牧師10年 鉄のカーテン逆境学ー台湾有力紙 新新聞に掲載」
https://providence-blue.com/about-providence/jungmyungseok/28402

真実なものは真実なものとして認めるられる社会になることを祈る。

団体スポーツで大切なことは「息が合う」こと=「心・考えと行ないが合う」こと

団体スポーツで大切なことは「息が合う」ことだと思う。
「息が合う」と言ったときに、具体的にどのようなことを意味するだろうか?

絶妙なタイミングでパスがつながった時に「息が合った」と言えるし、
言葉は交わしていないけど、バッテリーのサインがピッタリ合った時に「息が合った」と言える。

すなわち、
「息が合った」と言う時には「心・考えと行ないが合った」ということだ!

日頃から様々なプレーについて互いに話をしながら吟味しながら考えを合わせる。
そして、その考えを実践することができるように技術も磨くし、体力も付ける。
そうして初めて「息が合う」プレー、すなわち、「心・考えと行ないが合う」プレーが生まれるわけだ。

 

たくさん経験したことがあると思う。
彼はいつも絶妙にタイミングは合うけれどもキックミスでパスが繋がらない…
どんなボールも受け止めてくれるけれども、いつも自分の投げたいボールと違うサインを送ってくるのでかみ合わない…

 

そうやってスポーツ場面で経験したことは生活でも生きてくる。
職場での生活、夫婦の生活、様々な場面において、
心・考えと行ないを合わせるときに上手くいくもの。
信仰生活をすることにおいても同じだと先生が教えてくださった。

 

団体スポーツで大切なことは「息が合う」こと、すなわち、「心・考えと行ないが合う」ことだ。
ぜひとも意識してやってほしいし、
平昌オリンピックの団体種目を観戦する際にはこのような視点で観戦していただけたら一層団体スポーツの深みに触れることができると思う。