【野球の指導者必見】不貞腐れた(ふてくされた)選手たちをどのように指導したら良いか?

初めに、「不貞腐れる(ふてくされる)」とは、「不平・不満の気持ちがあって、なげやりな態度や反抗的な態度をする。ふてくさる。」と『デジタル大辞泉』にはある。
この意味を正確に理解した上で読み進めて頂けたら幸いである。

 

さて、野球の指導者をやっている方々は一度はこのような問題に直面したことがあるだろう。
不貞腐れた選手たちを一体どのように指導したら良いのだろうか?と…

私はバッティング練習にてバッティングピッチャーをよく勤める。
選手同士で投げさせても良いのだが、嫌々やる場合も多く、ストライクが入らないと互いに気分を害してしまいがちだからだ。
コーチの私がその役割を買って出るのだが、私も人間、100%ストライクを投げられるわけではないし、たまにボール球が先行することもある。
そんな時、選手たちの反応は各々なのだが…
不貞腐れた選手たちの反応はというと…
言葉では言い表せないほど気分が悪くなる…
打席に入るのをためらい、打席の後ろで愚痴を言い、ボールになると舌打ちをし、打ち終わっても頭も下げない…
そうなると、余計にバッティングボールを投げづらくなる…

先日、私は限界に達した。
こんな選手たちには何も教えたくない…
当然バッティングボールも投げたくない…
何なら指導料を頂かなくても問題無いので辞めたい…
久しぶりに憎しみのような感情までも込み上げてきそうだった…

私は毎日「選手を上手く指導できるように力をください」と神様にお祈りし続けていた。
もう限界だと思ったその瞬間、一つの強い霊感が来た。
「愛しなさい」
衝撃を受けた。
不貞腐れた彼らを「愛しなさい」というのだから…
チョンミョンソク牧師がベトナム戦争に参戦されて、敵と銃を向け合ったその瞬間に神様から「愛しなさい」と啓示を受けた経緯を瞬時に悟った。
そうして彼らを見ると、物凄く愛おしく感じられた。
彼らも野球が好きで、頑張っているんじゃないか。
至らないところもあるかもしれない、気に食わないこともあるかもしれない、でも同じく野球が好きで、野球の中で何とか自分を表現しようともがいている同志ではないか。
外見や好き嫌い、感情で接してはいけない。
分け隔てなく、みな同じく接しよう。
そう悟られた。

マタイによる福音書5章45節
こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

これが神様の精神、聖書の教えである。
彼らがどう私に接するかは関係がない。
私が彼らにどう接するかは絶対にぶれてはいけない。
不貞腐れた(ふてくされた)選手たちをどのように指導したら良いか?という題の答えはこれだ!
分け隔てなく接すること。
ここに指導者の力量・器の大きさを見て取ることができるだろう。

1勝の価値

先日、久しぶりに古巣を訪れた。
手をかけた教え子たちが最終学年となり、活躍する姿を見てたくましく思った。
試合も見学したのだが、いとも簡単に(もちろん実際には簡単ではないのだが)勝ち星をあげる姿を見て感嘆した。

さて、試合後に皆にコメントする機会があった。
私はこのようにコメントした。

「1勝がどれだけ難しいことであり、どれだけ価値があることなのか、忘れてはならない。
その1勝を得るまでにどれだけ努力したのか、どれだけ一生懸命やったのか、過程を省みてみると、その1勝の価値を知ることができるだろう。
グランドコンディションの良くないサブグランドで練習したこと、コロナが発生した当初思う存分練習できなかったこと、大雨の影響で増水して河川敷のグランドのネットが流され、土も飛んで行ってしまった中でもできる練習をしたこと等々…
本当に多くの困難を経て、それらを克服した結果が今日の姿であり、今日の1勝だ。
目に見える結果の中に目に見えない過程があるということを絶対に忘れてはならない。」

結果も素晴らしい。
しかし、その結果だけを見ると、あまり感動がわかない。
その結果を得るまでの過程を知ると、深く感動する。
彼らの過程の中で共に汗を流した私だからこそ、より実感がわいた。

チョンミョンソク牧師のことを思い出す。
故郷・月明洞の開発エピソードは何度聞いても衝撃を受ける。
もちろん、今の開発された姿だけを見ても感嘆する。
しかし、その開発の過程を知ると、本当に開いた口がふさがらない。
「もがきが傑作品を生む」とチョンミョンソク牧師はおっしゃったが、このヒトコトの深い意味を知るにはもっともっと過程を知らなければならないだろう。

そして、その成功裏には神様の働きを悟るしかない。
人間離れしたその偉業の背景には神様を認めるしかないのだ。
信仰を持たない野球人たちもよく「野球の神様」がいると言う。
勝利の過程の中で神様を感じるのだろう。

1勝の価値をかみしめて、またこれからも努力する選手たちになることを願っている。

回想~乱行から抜け出した今思うこと~

昨日から今日にかけて、久しぶりにゆっくりと自分と向き合う時間を頂いた。
母校を訪れ、また、聖書を手に取り、自分の人生を振り返る時間を持ちながらこの文章を綴っている。

聖書の読み進めていた箇所『ぺテロの第一の手紙』にはこのようなことが書いてある。

ぺテロの第一の手紙4章3~4節
過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。
今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。

私は深く共感したり感銘を受けたりした聖書の御言葉の箇所に蛍光ペンでしるしをしておくのだが、この箇所にもやはりこの箇所にも蛍光ペンのしるしがしてある。
何度読み返しても、この聖書の御言葉の主人公になったのだなぁと感じるしかない。

「酒もやらん、タバコも吸わん、ギャンブルもせん、何を楽しみにして生きているん?」
つい最近も私の生活を驚き、怪しみ、罵られることがあった。

私は、この聖書の御言葉の通り、そのような乱行には加わらないことを決めて早10年の歳月が過ぎた。
私の最近の人生の楽しみは、妻が作ってくれたお弁当を食べることと授かった子どもたちの成長を見守ること、そしてコーチングした選手たちが上達し活躍する姿を見ることだ。
(もちろん信仰の面においては神様を信じて愛して生きることが楽しみであることは特筆するまでもないが)

人は自分が溺れていることに気付くことが難しい。
そこから出て来て初めて溺れていたことに気付く。
溺れている人が溺れている人を救えない。
当たり前の話だが、私のこれからの大きな役割は、そういった乱行に溺れている人たちを救うことだと自負している。

溺れている人たちは怪しみ、罵るだろう。
救いの手を差し伸べても振り払われるかもしれない。

しかし、自分が乱行から抜け出して自由を得たことがどれほど幸せなことなのかを伝えられずにはいられない。

義なる生き方がどれほど良いのかは、義なる生き方をしてみないとわからない。

神様がどれだけ愛してくださっているかは自分が神様を愛してみなければわからない、とチョンミョンソク牧師はおっしゃった。

乱行から離れ、共に義なる生き方を求める人たちが増えていくことを心からお祈りしている。
過去の私がそうであったように…