梅雨でも野球の練習がしっかりできた経緯

コロナという未曾有の病が落ち着きを見せ、
自粛モードだった活動もようやく心置きなくできるようになってきた今日この頃。

先日は久しぶりに教会のメンバーが集まって野球の練習をすることができた。

練習の前日、雨が降り、当日の早朝にも雨が降っていた。
天気予報も終日雨。
「グランドで練習するのは厳しい…」と誰もが思っただろう。

しかし、練習時間の1時間ほど前に雨が止んだ。
ひょっとしてグランドでできるのではないかと足を運んでみると、思ったよりもコンディションは悪くないではないか!!
皆で協力してグランド整備をすることわずか30分、十分に練習できる環境が整った!!!

今回、野球の活動を中心になって進めているメンバーで祈っていたことがあった。
「雨が降らないようにしてください。」
神様はその祈りを確かに聞いてくださり、梅雨の中でも、しっかりと野球の練習をすることができたのだ!
ハレルヤ!

 

当日は未経験者も集まって共に野球をした。
チョンミョンソク牧師が教えてくださった御言葉「人は考えで生きていく」ということを意識しながら、良い考えで野球をできるよう皆が努力した。

私個人的には強い考えを持つことが大事だと悟った。
絶対打てる!絶対抑える!絶対アウトにする!
そう強く考えてプレーした時に上手くいくのを実感した。

「野球は精神のスポーツだ」とチョンミョンソク牧師は教えてくださった。
心・精神・考えで負ければ負けてしまうことは皆共感できる部分ではないだろうか?
ピッチャーのボールが速い、ちょっと怖いと考えによぎった時点で腰が引けてしまう…などの現象はまさにそのことを物語っている。

 

今回の野球の練習ではケガ人は出なかった。
野球のみならず、スポーツではケガや事故がつきものであるが、無事に練習を終えることができたということに感謝するしかない。
ヒヤッとする場面もあった。
見学に来ていた子どもにノックのボールが当たりそうになった。
守ってくださった神様に今一度感謝したい。

練習すること、努力することについて

夢や目標に向かって日々練習している野球選手たちが多くいる。
それぞれに一生懸命に努力していると思うが、今一度「努力」するということがどういうことなのかについて考えてみてはどうだろうか。
同じく「練習」、「努力」という単語を用いるにしても、その中身がどのような、どの程度のモノなのかは、使う人によってそれぞれだ。
よく検討してみる必要があると思う。

練習するときは試合の何倍もしないといけません。
練習をしなければできません。
実戦のように最善を尽くさなければなりません。
<チョンミョンソク牧師『平和サッカー』(p.199)より>

練習で実戦(=試合)のように最善を尽くしている選手がどれくらいいるだろうか?
少しでも妥協していないだろうか?
練習から最善を尽くすことを繰り返していれば上手くなるだろう。

 

一度でできることはありません。
私もボールをこのように蹴れるようになったのは最初からできたのではありません。
最初からよく蹴れたのではなく、数百、数千回練習をして、このようになったのです。
何でも継続すればよくできるようになります。
上手くできる時までしなければならないということです。
<チョンミョンソク牧師『平和サッカー』(p.199)より>

1回や2回、あるいは数十回やったのではできないことが大半。
数百回、数千回練習を繰り返すことを努力というだろう。
また、努力というものは「できる時まで」するものだ。

 

2つのチョンミョンソク牧師の言葉を聞いて、
私自身、野球コーチとしてまだまだ取り組む姿勢が甘かったことを痛感する。
練習から最善を尽くして「できる時まで」やることをしっかりと胸に刻みたい。

勝利至上主義/勝利追求主義/勝利感動主義

先日、ある少年団の野球チームでの出来事を耳にした。

練習試合での出来事。
試合は同点で最終回を迎えた。
表は点が入らず裏の攻撃となった。
1アウトランナー3塁で一打サヨナラの場面!

ここで読者の皆様が監督ならばどのようにするだろうか?
私ならばサインは出さず、打たせると思うのだが…

実際の出来事は…
「スクイズ」をしたのだった!
サヨナラスクイズで勝ったのだった。

私はこの出来事に驚きを隠せなかった。

どのような方針でチームを運営しているかによって、その都度試合場面においても(練習試合であろうとも)採る行動が変わってくる。
例えば、今日の練習試合では何が何でも勝つ!と言って試合に臨んでいた場合、その目標・目的を達成する手段として最善の策を採るのは当然である。
勝つことが全てだとは思わなくても、勝つことを追求する姿勢から、練習試合のサヨナラの場面でスクイズは有りだろう。

これは私個人の持論であるが、勝つことが全てだという勝利至上主義は危険をはらんでいる。しかし、最近は、勝つことをすべてだとは思わないが、勝ち負けを決めるスポーツの特性上、勝ちを追い求めるという姿勢はあって然るべきであり、勝つことにこだわる中でも面白さ・楽しさを失わないようにしていく勝利追求主義を主張する人たちが増えてきた。
ここから私はさらにコマを進めて、勝利感動主義を唱えてみたい。
(これは私個人が作り出した言葉であり、私個人の見解であるということをご了承いただき、先を読み進めて頂ければ幸いです。)

私が練習試合でのサヨナラバントという出来事を聞いて驚いた理由は、「勝ち方」についてである。
私はバントは否定しない。
打たせるよりも、バントの方が点を取って勝てる確率が高いとなればバントが選択肢になっても良いとも思う。
しかし、それまでの過程の中でスクイズバントで試合を決めてやるぞと毎日毎日命を懸けて練習してきただろうか?
大事な場面で1本を打とう!と思って日々日々努力してきたのではなかったか?

勝利に「感動」という軸を一つ入れてあげることで、スポーツの持つ可能性が大きく広がって来るように思う。
勝っても感動が起こらなかったら残念ではないだろうか?
勝ちに行くが、対戦相手も、見ている人も、感動を呼び起こすような勝ち方を目指したいものである。
そして、神様に栄光を帰し、神様に感動を与える勝利・スポーツの在り方を目指したいものである。