冬トレの指針となるヒトコト

今日は、冬トレの指針となるヒトコトを紹介したいと思う。
私はこのヒトコトを肝に銘じてひと冬を乗り越えれば見違える選手になると確信する。
最近、練習後のミーティングで毎日欠かさずこのヒトコトを選手に話している。

「持続的にやること」

3日坊主というが、良いと思って始めるものの、数日経ってやめてしまうことが本当に多い。
価値や意味を分かっていたとしても、持続的にやることは難しい。
(本当の意味で価値や意味を分かっていないとも言えるが…)
状況環境のせいにして1日2日やらなくなれば、再び始めることはほぼないだろう…
地を這ってでも続けてやるという精神や根性が必要不可欠だ。

近年、科学の発展によって、効率的・効果的なトレーニングがたくさん開発されている。
「科学的」という言葉と対象にして「根性」や「精神」という言葉が使われ、根性論が古いというレッテルを張られているような感じがする。
しかし、いくら科学的にトレーニングを考案したとしても、いざ、そのトレーニングをこなそうとするとなれば、「根性」や「精神」的な部分がものを言うしかない。

もちろん、ただ何でもがむしゃらにやれば良いわけではなく、科学の知見を取り入れてトレーニングを行わなければならない。
しかし、いくら良いトレーニングメニューが存在したとしても、それをこなせなければ何の意味もないということ…

 

持続的にやることは想像以上にエネルギーが要る。
毎日会社に通うことも持続的にやることに含まれるが、とてつもないエネルギーを消費しているだろう…
えいっ!とすべてを投げ出し、現実逃避をしたくもなるだろう…
でもそんな時に、ぐっと堪えて、歯を食いしばってやってこそ、成果を出していくことができる。
仕事の効率を上げたとしても、最後の最後は忍耐や歯を食いしばってやるといったような根性的な、精神的な部分が必要なのだ。

野球の練習を通して、そういう部分を学ぶことができたし、教えてあげらることができると思う。

最後に先生が筋トレをされたエピソードを紹介したい。
先生は一日に600回と目標を定めて運動に取り組まれたそう。
ある日、600回の運動ができなかった。
そこで、次の日にできなかった分を一気にやろうと思った。
しかし、一気に二日分の1200回をしようとしたら疲れ、体に無理がかかった、と。

<毎日持続的にすること>が<一度で一気にやること>よりまさる。
(2017年12月13日水曜日の御言葉)

トレーニングは一日に一気にやったら故障の原因になる。
特に冬トレは強度を高めるため、一気にはできない。
毎日持続的にすることがこの冬のトレーニングに成功する秘訣だ。
このヒトコト、必ず覚えておくことを願う。

今日12月9日は初めて摂理の主日礼拝に参加した日

今日12月9日は初めて摂理の主日礼拝に参加した日だ。
今から8年前の2012年12月9日のこと。
(摂理に来て以来、日付(時)をかなり意識するようになったため、特別にメモをしていなくても節目の日付はすべて記憶している。)
スーツ専門店でストライプのスーツを新調して臨んだことを覚えている。

その日はとても寒く、私は白シャツの中にお気に入りのSSKのハイネックのアンダーシャツを着た。
当然、白シャツの首元から何か出ていては可笑しな格好なのだが…
私はまだまだ幼かったのだ…
先輩に「インナーが首から出てるよ」と言われて、そこで気づいた…
ハイネックを中に折り曲げても折り曲げきれず、そのまま礼拝に臨んだことは記憶に新しい。
(その時、神様はクスっと笑って覆ってくださったと信じている…)

 

さて、今週の御言葉の主題が「感謝と栄光」だった。
もらったものがあるから感謝しなさいと先生はおっしゃった。
この8年間を振り返り、神様からもらったモノを様々に考えてみた。

特に大きなことは自分が望んでいたモノをもらったことだとおっしゃった。
自分が望んでいたモノ、その一つに「野球で飯を食う」という夢があった。
プロの道は閉ざされた…いや、本当の意味で自分が望んでいたことは「生涯野球に携わりながら生計を立てていくこと」だった。

その夢が摂理に来て叶ったのだ!
これは紛れもない事実!!
神様、感謝します!!!
(摂理に来ていなかったらその夢が叶えられていなかったかどうかは分からないが、救いを得て、かつ、自分の夢も実現することができたのだから、それ以上のことはない!)

家庭を持ちながら、野球一本で生計を立てていくことは易しいことではない。
自分の好きなことを仕事にできたらそれ以上の幸せはない、といった言葉を聞いたことがあるが、ただ好きなだけでは仕事にはならない。
野球好きはこの世の中にいくらでもいる。
しかし、野球好きで野球一本で生計を立てている人がどれくらいいるだろうか?

私が望んでいたモノは札束でもなければ金塊でもない。
生活そのものだった。
自分の望み通りの生活ができることほど幸せなことがどこにあるだろうか?

先生は「実力がないといけない」とおっしゃった。
いくら神様が祝福をしてくださって願っているものを受けたとしても手に負えるだけの実力が自分になければ自分自らがその祝福を手放してしまう…

人々はよく勘違いをしている。
神様が祝福をしてくださらないのではなく、自分がその祝福を手に負う責任を果たせていないのだ…
私が野球一本で生計を立てることができるようになったのは、その最低限の責任を果たした、というだけだ…

今もらっているものは、自分の力と能力では解決できなかった。
解決できなくて得られなかったなら、どんな境遇だったか、考えてみなさい。
もらえていなかった時より100倍、1000倍よくなったことを悟って、感謝感激し、愛して生きなさい。
間違いなく神様と聖霊様と主がくださったものだ。
(2020年12月7日主の御言葉より)

アーメン。
摂理9年目に突入するが、この御言葉を完全に自分の哲学にして生きていきたい。

酸っぱくなったキムチ

自家製キムチの発酵が進み、かなり酸っぱくなってしまった。
酸っぱくなったキムチはごま油を混ぜたり、火を通して砂糖を混ぜたりすれば酸っぱさを抑えることができると言う。
しかし、我が家のキムチは相当発酵が進んだのか、酸っぱさを抑える術を施してもダメだった。
元々酸っぱいものが苦手な私にとっては致命傷だ…

発酵が進んだキムチはどんなにあがいても元には戻らない…
「後悔は後でする(후회후에 한다)」と先生はおっしゃったが、本当にその通りだ。
酸っぱいキムチを食べて酸っぱい顔になるくらいならまだ良いが、人生で酸っぱい顔をして生きたくはない…

 

酸っぱいキムチを生かす方法が他にあるという。
酸辣湯(サンラータン)のような酸っぱいスープを作るのに利用すれば良いとのこと。
もちろん私は酸っぱいものが苦手だからその術はとらない。

ハチミツ漬けにでもしてみたらどうか?と私なりの方法を頭の中で考えている…
もったいないが未練なく捨てることも選択肢の一つに入れている…
酸っぱくなったキムチをどうしようかと頭を悩ます時間自体がもったいないとも思っている…

酸っぱくなったキムチを通して、「時を逃すな」という悟りを得たことが不幸中の幸いだ。
コロナ禍の中でも不幸中の幸いだと言えるように、残りわずかとなった2020年を全力で駆けたいと思う。