その成功に辿り着くまでの過程を知っているだろうか…

人は成功している人を見上げ、凄い!と感嘆の声をあげる。
しかし、その人の成功に至るまでの過程を知って凄い!と感嘆する人は多くないように思う。

成功に至るまでの過程は簡単に言葉で表現できるものではない。
理解の範疇をはるかに超える努力をその過程の中でしているからだ。

何事も最初から上手く出来る人はいない。
生まれ持った才能という言葉を使うけれども、生まれて一度もやったことがないのに上手く出来る人がこの世の中のどこにいるだろうか?
野球ボールを一度も触ったことがない人が150km/hをどうやって投げ込むことが可能だろうか?

あるプロ野球選手が150km/hを投げ込めるようになった努力の過程を話していた。
腹筋を毎日1000回以上したそうだ!

ある人は150km/hを投げるという事実を聞いて、「凄いねー!」と感嘆するだろう…
しかし、腹筋を1000回以上したというその過程で努力したこと知れば、「1000回?!わー!」ともっと感嘆するだろう…
さらに、腹筋を1000回やったことがある人は感嘆する強度がもっと強いだろう…
少しだとしても自分も同じように実践した経験があるならば、その努力の過程で経験する痛み・苦痛・心情が分かるからだ。

先生が聖書の御言葉を解くに至るまでに聖書を2千回以上読まれた。
また、40日、70日の断食祈りもされた。
その過程の部分を知らず、「先生が聖書の御言葉を解いた」というその事実だけを知ったとしたら、「凄いねー!」と感嘆するくらいだろう…(聖書に興味関心がない人にとっては、ただ「へー」と言うくらいだろうか…)
聖書の御言葉を解く過程の中で2千回も聖書を読んだこと、断食祈りを40日、70日もなさったことを知ったならば、どうだろうか?
さらに、そこに自分が経験したことがあるならば、どれほど深い感嘆の声を上げるだろうか…

その成功に辿り着くまでの過程を知っているだろうか…と題したが、何かに成功した人と接するとき、その過程にある努力を分かって接する人間になりたいと思った。

昨日、我が選手たちにもミーティングの中であるプロ野球選手が150km/hを投げことができるようになった過程の話を共有した。
様々な努力の過程を経て各分野で成功を収めていく選手たちになることを期待して…

【扉を開けるカギ】チョンミョンソク牧師が語る一流と二流を分ける運動のツボ

【扉を開けるカギ】の第5話は多くの野球選手たちの前でチョンミョンソク牧師が運動について語ってくださった時の話。

その日、チョンミョンソク牧師の前には多くの野球選手たちが集まっていた。

初夏、強い日差しの中、チョンミョンソク牧師は野球選手たちが野球をする姿をご覧になって、最後にメッセージをくださった。

そのメッセージの中で、チョンミョンソク牧師は、運動のツボとも言える、一流選手になるために必要なことを語ってくださった。

 

“세밀하게 하는 것이다”
“細密にすることだ”

このヒトコトについて続いて、
「人は誰でも運動するとき、力強くはできる。しかし、細密にはできない。」
と説明をしてくださった。

細かいところまで根詰めて出来るかどうか。
特に野球においては細かいところで勝敗が左右する。
キャッチャーのブロッキングミス一つで負けることもある。
ベースランニングで塁ひとつ先を行くことで勝利を呼び込むこともある。

バッティングにおいては、
直径10㎝にも満たないボールが18.44m前から150km/hの速度で投げられるのだが、
そのボールを直径6.6㎝以下のバットで打ち返さなければならない。
当然、大雑把にスイングして当たるわけがない…

 

細密にプレーすることができるように日々努力・挑戦したいものだ。
チョンミョンソク牧師のコーチングを実践することで一流への扉を開く選手たちが輩出されることを期待したい。

学ぶ時の姿勢、心構え

野球の練習は学ぶ時間だとも言える。
自分ができないこと、知らないことをまずは学ばないといけない。

学ぶ時にはどのような姿勢、心構えを備えるべきか、今日は書きたいと思う。

チームに入団して長く経つ選手たちが、慣れ合いを通り越して、監督・コーチのアドバイスに対する返事がおろそかになることがある。
何となく聞き流して、何となく返事をするから、動きに変化がない…

以前、監督が選手たちにこのように教育されたことがあった。
「あなたたちは監督・コーチのアドバイス一言がどれほど貴重なエキスなのか分かっていない。
何年何十年も野球をしながら得た知識とノウハウが詰まっている。
それなのに、その一言をただ流し聞いて自分のモノにしようとしない。」

仮に、選手たちが教えてもらえることを当たり前のように考え、その教えをおろそかに扱うならば、それは大きな間違いだと思う。

野球で言えば教える立場にある私も、聖書の御言葉で言えば教えてもらう立場にある。
選手たちの姿を鏡として自分の学ぶ姿勢を深く省みている。

先生は修道生活の中で神様から御言葉を学んだ時にどのような姿勢で学んだのかについて話してくださった。
特に、神様の創造目的についてはたったの一度しか学んだことはなかったが、変わることなくその学んだことを持って生きてきたとおっしゃった。
たったの一度だけ聞いた教えを持って数十年も変わることなく生き続けることは決して易しくないだろう…
そして、一度学ぶ時には詳しく聞いて学んだともおっしゃった。
神様の教えを貴重に思い、一度だとだとしても詳しく聞いて学んで、それを実践してこられた先生の話を聞きながら、学ぶ時の姿勢・心構えはこのようにあるべきだということを悟った。

一度だけ聞いたとしても、その全てを自分のモノにすることができるようにその声に耳を傾けたいものだ。
そのような学ぶ姿勢・心構えを備えるならば、野球の技術はもちろんのこと、人間的にもより成長していくことが期待できるだろう。