分別・判断のミスが大きな苦労を招く

先週土曜日のこと。
「分別の知恵」という御言葉が伝えられた週の最終日だった。
午後2時からの練習スケジュールを組んでいたが、雨予報だったため、練習を中止にするか、あるいは決行するか悩んでいた。

最終的には開始時間を早めて練習することにした。
しかし、開始早々小雨が降りだした。
練習を素早く進行させたが、雨は強くなるばかりだった…
結局、大雨に打たれながら練習することになり、早めに練習を切り上げるしかなかった…

もちろん、雨天での練習を通しても得られるものはあった。
しかし、大きな苦労をしたその分だけ得られたものがあったかと言えば、そうではなかったように思う。

指導者は分別・判断を本当によくしなければならない。
ついてくる人たちも共にその分別・判断に従うようになるからだ。
組織が大きくなればなるほど、指導者の分別・判断の失敗の損害は大きくなる。
私も指導者の一人としてこのことを深く戒めたい。
そして、切実に祈り、願い求め、分別・判断の知恵を受けたい。

過程の中で楽しむこと

昨日、選手と共に食事をした時のこと。
私は少し遅れてその場に到着したのだが、ある選手がもうすでに食べ終わっていた…
彼はいつも食べるのが速く、5分もかからないことが大半…
もっと味わって食べた方が良いのではないかと助言すると、お腹を満たせば良いんですとの回答が返ってきた…

この一件を通して、人生もこのようにこうだということを深く悟った。
目的に向かって突き進むことは重要なことだが、その過程において何も感じるものがないとするならばどうだろうか?

先生は過程の中で楽しみ、過程の中で得ることを教えてくださった。
先生は故郷を開発されながら、サッカーもし、皆と共に食べ飲み、様々な行事も行なわれた。
全部作ってから使おうとするのではなく、過程の中で享受することを示してくださった。

日々の生活の中で何か面白くなく、虚しさを感じることがあるだろうか?
ご飯を食べる時に、よく噛んで味を味わうように、人生もそのように生きれば変わってくるのではないかと思う。
野球においても、ただ勝つことだけに向かって突き進めるのではなく、過程の中で寝食を共にしながら楽しむことが大切だろう。

野球ボールの行末

先日、練習中に近隣に住む方が来てボールを一つ貸してくれと言われたので貸した。
私は深く考えずに、何に使うかも聞かずにボールを一つ貸した。

その方はボールを犬の遊び道具として使った…
当然、ボールは犬の唾でベタベタ…

心から悔いた。
まさか、そんな風に貸したボールを使うとは…想像もつかなかった…

 

先生は以前このように価値について御言葉をくださったことがあった。

物も人間もみんなそれなりの価値がある。
しかしどれだけその価値を持って使うかによって、相手になるものもその価値が左右される。

(自分がどれだけ価値を分かって使うかによって相手の価値も左右される。)
自分自身を価値ある使い方をする人だけが、他の人のこともそのように価値ある使い方をする。
(豚に野球のボールを与えたら、噛みちぎって食べた。)
2013年2月4日主の御言葉より

先生はボールが命だとおっしゃった。
私はその瞬間、ボールが命だということを忘れてしまった。
結局、価値を分からない人に貸してどうなったか?
非常に残念な結果になって帰ってきた…
いや、帰ってきたのではなく、喪失したのだった…

 

聖書にもこのようにある。

聖なるものを犬にやるな。
また真珠を豚に投げてやるな。
恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
マタイによる福音書7章6節より

貴重なモノ、価値あるモノを絶対に手放さないように今後これらの御言葉を戒めたい。