阿吽(あうん)の呼吸

チームスポーツでは「阿吽(あうん)の呼吸」が重要です。

例えば野球における二塁への牽制球。(←ちょっとマニアックですね・・・)

ピッチャーとキャッチャー、ショート・セカンドの連係によって成立します。

この4人がサインを間違えてはいけないし、遅くも早くもないタイミングで動くことが必要とされます。

 

生活の場面でも「阿吽(あうん)の呼吸」が重要な時って結構ありますよね。

重いものを持ち運ぼうと思って何人かで協力する時、プロジェクトチームを組んで製品開発を進めていく時、などなど。

 

阿吽の呼吸は「心(心情)を合わせる」とも表現することができます。

鄭明析牧師は心情について教えてくださいました。

摂理 鄭明析「心情」

「話して分かること」は<一段階の心情>で、

 

「話さなくても分かること」は<二段階の心情>だ。

 

心情にも段階があって、互いに言葉を交わさなくても通じ合う段階は二段階の心情です!

二段階の心情が1+1=2以上のパフォーマンスを生み出すと思います!

 

 

申命記32章30節
彼らの岩が彼らを売らず、/主が彼らをわたされなかったならば、/どうして、ひとりで千人を追い、/ふたりで万人を敗ることができたであろう。

 

 

もうすぐ甲子園が始まりますが、グランドでプレーする球児たちが乗り越えなければならない大きな壁があります。

それは観客の大声援です。

プレッシャーがかかることももちろんありますが、そうではなく、観客の声援によってチームプレー時に必要な掛け声はかき消されてしまうということです。

隣のポジションでも近寄らないと互いの声が聞こえない状況です。

そのような状況の中で、重要なのは「二段階の心情」でしょう!

 

今夏、優勝旗を手にするのは二段階の心情に達した高校ではないかと思います☆

 

今年は甲子園へ応援に行こうかなぁ~~

 

 

 

野球のための人生ではなく、人生のための野球

この夏に涙を流した球児たちへ

「本当にお疲れさま!」
心からまずそう伝えたいです。
数万の困苦を味わいながら今日ここまでやってきたのを私自身の経験からも分かります。

さて、野球に没頭していると、自分の人生が野球のための人生であるかのように錯覚してしまいます。
私もそうでした…

私はよくアスリートたちに問いかけます(野球選手の例)。
「もし今大けがをして野球ができなくなったらどうする?」
「野球をしていなかったら今の自分ってどうなっていたと思う?」
そうすると、皆、回答に行き詰ってしまいます…

 

<間違った思考をして行なうこと>は、
まるで運転する人がハンドルを違う方に回して
続けてスピードを出すことと同じだ。
(チョンミョンソク牧師の箴言より)

 

人生、野球だけを考えて生きるのは、正直、間違った思考です…
もちろん、高校野球に没頭するなと言っているわけではありません。
野球だけを考えて生きることに一石を投じているのです。

高校野球が終わり、ひと段落ついた今この時、少し立ち止まって自分の人生について考えてほしいです。

ユニフォームを脱いだ自分と向き合って、自分の個性は何だろうか?自分の生きる意味は何だろうか?と少し考えてみてほしいと思います。

そうして人生の根本の問いに対する答えを見つけて、人生を歩んで行ってほしいと思います。

努力は報われる!

努力は報われる?

夏の風物詩「甲子園」が迫ってきた。

甲子園を楽しみにしている多くのファンにとっては鼓動の高鳴りを感じていることだろう。

今年も高校球児たちの白球を追う姿は多くの人たちに感動を与えることを期待している。

 

皮肉なものでこの夏を「勝利」で締めくくることのできる高校は全国でたったの1校、優勝した高校だけ…

「勝・負」にすべての基準を置いてしまうと、「努力が報われる」高校はたったの1校という悲劇…

 

ちなみに私の高校野球の最後の夏は県大会の決勝で負け…

ひたすら甲子園に出ることだけを考えて過ごしてきた高校3年間であったがゆえに、

今まで努力してきたことが全部無駄だったと考え、ひどく失望した…

私は命がけで練習毎にバッティングピッチャーを務めていたのが、
ベンチ入りを果たすことができず、報われなかったという思いが一際強かった…

 

 

行なった通りに報いてくださる神様

野球はベンチ入りの人数・試合に出られる人数が決まっているため、
どれだけ努力したとしても試合に出られない・ベンチにすら入れない場合が当然ある。

その時の悔しさ、いたたまれなさは言葉では表現できない…
特に一生懸命に努力した人にとっては…

 

私は極度の虚しさを感じていた…
「自分のことを分かってくれる人はこの世の中には一人もいない」とまで考えることもあった…

 

しかし、摂理に来て、その虚しさは解かれるようになった!
自分の労苦が絶対に無駄にならないところ、それが摂理。

 

私は毎日野球場に足を運んでお祈りをした。
その際「こうして毎日野球場に足を運んでお祈りしているけれども、本当に意味があるのだろうか?神様は聞いてくださっているのだろうか?」と疑問に思った。

続けて100日間、毎日お祈りを野球場で続けた。
すると、神様が万物を通して応えてくださった。

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写真では小さいが、ハートマークの形をした雲を見つけた。

「あなたの行ないを愛で見ている」という神様の啓示だった。

< マタイによる福音書6章4節>
隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

 

「正直者が馬鹿を見る」という言葉があるが、
このようなことが実際にはあり得るのが現状…

 

しかし、摂理では絶対にそういうことはない。
神様に対して行なったことはいつか何らかの形で神様が報いてくださる。

 

自分の努力が報われなくて無念な思いを経験している人がいるならば、摂理に来てみてほしい。
その努力が絶対に無駄にはならないことを感じるだろう。