1勝の価値

先日、久しぶりに古巣を訪れた。
手をかけた教え子たちが最終学年となり、活躍する姿を見てたくましく思った。
試合も見学したのだが、いとも簡単に(もちろん実際には簡単ではないのだが)勝ち星をあげる姿を見て感嘆した。

さて、試合後に皆にコメントする機会があった。
私はこのようにコメントした。

「1勝がどれだけ難しいことであり、どれだけ価値があることなのか、忘れてはならない。
その1勝を得るまでにどれだけ努力したのか、どれだけ一生懸命やったのか、過程を省みてみると、その1勝の価値を知ることができるだろう。
グランドコンディションの良くないサブグランドで練習したこと、コロナが発生した当初思う存分練習できなかったこと、大雨の影響で増水して河川敷のグランドのネットが流され、土も飛んで行ってしまった中でもできる練習をしたこと等々…
本当に多くの困難を経て、それらを克服した結果が今日の姿であり、今日の1勝だ。
目に見える結果の中に目に見えない過程があるということを絶対に忘れてはならない。」

結果も素晴らしい。
しかし、その結果だけを見ると、あまり感動がわかない。
その結果を得るまでの過程を知ると、深く感動する。
彼らの過程の中で共に汗を流した私だからこそ、より実感がわいた。

チョンミョンソク牧師のことを思い出す。
故郷・月明洞の開発エピソードは何度聞いても衝撃を受ける。
もちろん、今の開発された姿だけを見ても感嘆する。
しかし、その開発の過程を知ると、本当に開いた口がふさがらない。
「もがきが傑作品を生む」とチョンミョンソク牧師はおっしゃったが、このヒトコトの深い意味を知るにはもっともっと過程を知らなければならないだろう。

そして、その成功裏には神様の働きを悟るしかない。
人間離れしたその偉業の背景には神様を認めるしかないのだ。
信仰を持たない野球人たちもよく「野球の神様」がいると言う。
勝利の過程の中で神様を感じるのだろう。

1勝の価値をかみしめて、またこれからも努力する選手たちになることを願っている。

回想~乱行から抜け出した今思うこと~

昨日から今日にかけて、久しぶりにゆっくりと自分と向き合う時間を頂いた。
母校を訪れ、また、聖書を手に取り、自分の人生を振り返る時間を持ちながらこの文章を綴っている。

聖書の読み進めていた箇所『ぺテロの第一の手紙』にはこのようなことが書いてある。

ぺテロの第一の手紙4章3~4節
過ぎ去った時代には、あなたがたは、異邦人の好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう。
今はあなたがたが、そうした度を過ごした乱行に加わらないので、彼らは驚きあやしみ、かつ、ののしっている。

私は深く共感したり感銘を受けたりした聖書の御言葉の箇所に蛍光ペンでしるしをしておくのだが、この箇所にもやはりこの箇所にも蛍光ペンのしるしがしてある。
何度読み返しても、この聖書の御言葉の主人公になったのだなぁと感じるしかない。

「酒もやらん、タバコも吸わん、ギャンブルもせん、何を楽しみにして生きているん?」
つい最近も私の生活を驚き、怪しみ、罵られることがあった。

私は、この聖書の御言葉の通り、そのような乱行には加わらないことを決めて早10年の歳月が過ぎた。
私の最近の人生の楽しみは、妻が作ってくれたお弁当を食べることと授かった子どもたちの成長を見守ること、そしてコーチングした選手たちが上達し活躍する姿を見ることだ。
(もちろん信仰の面においては神様を信じて愛して生きることが楽しみであることは特筆するまでもないが)

人は自分が溺れていることに気付くことが難しい。
そこから出て来て初めて溺れていたことに気付く。
溺れている人が溺れている人を救えない。
当たり前の話だが、私のこれからの大きな役割は、そういった乱行に溺れている人たちを救うことだと自負している。

溺れている人たちは怪しみ、罵るだろう。
救いの手を差し伸べても振り払われるかもしれない。

しかし、自分が乱行から抜け出して自由を得たことがどれほど幸せなことなのかを伝えられずにはいられない。

義なる生き方がどれほど良いのかは、義なる生き方をしてみないとわからない。

神様がどれだけ愛してくださっているかは自分が神様を愛してみなければわからない、とチョンミョンソク牧師はおっしゃった。

乱行から離れ、共に義なる生き方を求める人たちが増えていくことを心からお祈りしている。
過去の私がそうであったように…

野球の練習中に神様が助けてくださって大事故に至らなかった経緯

野球コーチである私は練習の前に必ず神様に祈りを捧げている。
「今日も事故・ケガがないように守ってください」と。

そして、この祈りを神様は聞いてくださり、守ってくださって、大きな事故やケガ無く野球をすることが出来ている。
神様に心から感謝を捧げたい。

事故がなく、ケガがないことは決して小さいことではない。
数万のアクシデントに見舞われ、戦線離脱し、時には命までも落とす場合があるからだ…

先日、大事故に至りそうな出来事があった。

ノックをしている最中のことだった。
ノックで捕球したボールは送球する格好だけをして送球はしないように選手たちに指示をしていた。
私はノッカーとして、テンポよく選手がノックを受けることが出来るようにするため、捕球したのを確認したらすぐに次のボールを取るために選手から目を切っていた。
リズムに乗ってきて、テンポよくノックを進行しながら「よし、この調子だ!」と思って次のボールをかごから取ろうとした。

その瞬間…

顔面にもの凄い衝撃が走った…

捕球だけのはずだったが…
選手が過ってボールを投げ、そのボールが私の顔面に当たったのだ…

痛すぎて涙が出た…

どうやら左目と鼻の間の辺りに直撃したようだ…

私は必死に痛みをこらえてノックを打ち続けた。
ノックを受けていた選手はまだ幼なかったため、ショックを与えないようにと、必死で平気を装った。
練習が終わってからも「何もなってないから大丈夫だ、気にするな!」と幼い選手に声をかけて帰した。
幼い選手が何かトラウマに陥らないことを心から願った。

 

私は意図してそう振る舞ったわけではなく、神様がそのようにしてくださったことだったと回想する。

チョンミョンソク牧師が新入生を迎えてバレーボールをされた時のエピソードを思い出した。
新入生が打った強烈なスパイクがダイレクトでチョンミョンソク牧師の頭部に当たったことがあった。
その時、チョンミョンソク牧師はどうされたのか。
憤ることなく、その新入生にも大丈夫だと言って何も無かったかのように過ごされた。

強烈なスパイクがダイレクトで頭部に当たった場合、正直、平気を装うことは不可能だ。
瞬間霊感が来て、ぐっと力を入れて構えたといったようなことをおっしゃっていたが、果たして平気だろうか…

 

今回の出来事の後に、チョンミョンソク牧師の神的対応が思い出されて、チョンミョンソク牧師がなぜそのようにされたのかを深く悟る機会となった。

 

後日、一応検査をしに病院へ向かった。
レントゲンで見てもらったのだが、骨に以上なし!
神様が練習前の祈りを聞いてくださって守ってくださったのだ!
ハレルヤ!

 

野球は一歩間違うと命に関わる事故が起こる可能性のあるスポーツだ。
天下を与えても代えることのできない命が絶対に野球の事故によって奪われないことを祈り、また祈る。
そして、野球に関わるすべての人たちが神様に祈りを捧げて野球を始めることを願う。