聖書も野球も同じ!?文字通りの間違った解釈が滅亡を招く!?

近年、野球界では「フライボール革命」と言われる野球理論の転換なるモノが起こっている。
「フライボール革命」という言葉を知っている人は多いと思うが、その内容を詳しく知る人は少ないように思う。

バッティングにおいて、“フライボール”と言われるとどんなことが思い浮かぶだろうか?
その文字通りに解釈して、高く打ち上げることを思い浮かべるだろう。
高く打ち上げれば、フェンスを越えない限り、ノーバウンドで捕球されてアウトとなってしまう。
文字通りにフライボールを打つことと解釈し、行動するならば、それは革命ではなく滅亡だろう…

「フライボール革命」の発端はアメリカ、その中心となる考え方はバレルゾーンと呼ばれる打球速度158km以上・打球角度30~26度で打ち出せば得点に結びつく確率が高くなるというモノだ。
…ん?
打球角度が30度ならば、高く上がるフライではなくライナーではないか!しかも、打球速度が158kmということは強烈なライナー性の当たりではないか!
「フライボール革命」の実態は、易しく言うならば、「内野の頭を越す強いライナーを打て!」ということなのだ!

*理論上、物体を投射する場合の最適投射角度は、真空中での放物運動の場合には45度とされる。ここに空気抵抗などの要素が加わると数値は異なるのだが、ただ単純に遠くに飛ばすことだけを考えるのであれば打球角度はもう少し高いはずである。

さて、「フライボール革命」について、文字通りに捉えて勝手な解釈をしてしまえば滅亡を招いてしまうことは十分ご理解できたと思う。
この文字通りの解釈について、チョンミョンソク牧師は聖書の聖句を引用されながら聖書を正しく解くように教えてくださった。

ペテロの第二の手紙3章16節
彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

この聖句の通り、聖書も野球も全く同じなのだ…
人の子が雲に乗ってくるという聖句を文字通りに信じて雲を見上げて待ち、その時が来たら天体が火で焼かれ(ペテロの第二の手紙3章10節、12節)、空中に引き上げられる(テサロニケ人への第一の手紙4章17節)という聖句を文字通りに信じて持ち物を全て捨ててミレニアムを迎えた人たちがいたことは承知の事実だ…

何事も正しく知らなければならない。
聖書も野球もその他のすべての分野においてもそうだ。
自分勝手に解釈をせず、正しく知ろうと努力することが大切であり、正しく教えてくれる人の話を聞かなければならないだろう。
自分の滅亡を招かないために…

中学の時に同じ野球チームだった仲間の突然の別れ

寝耳に水…
まさか同い年の野球仲間がこんなにも早く…

中学の野球チームの同窓会LINEに訃報が入った。
3年間共に汗を流した野球仲間が、仕事終わりに倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった、と。
中学卒業以来、一度も再会することができず、仲間の突然の別れを迎え、心苦しいばかりだ…

彼と共に野球をした中学時代を回想してみた。
当時は県下敵なし。
今なおチーム史上最高成績を収めた黄金世代。
死ぬほどキツかった練習を彼と共に乗り越えた日々を思うと涙が込み上げてくる…

私は摂理に来て、人生の生きる意味を知り、死後の世界について悟った時、切実に祈りを捧げた。
過去、自分と共に野球をした全ての仲間たちが救いを得られるように、と。
彼がその後どのような人生を歩んだのか、詳しくは分からないが、私の小さな祈りが天に届くことを切に願うばかりだ…

人は生まれて必ず死を迎える。
ただ早いか遅いかの違いがあるだけだ。
その生きている期間「何を食べて生きるかが問題ではない。どのように生きるかが問題だ。」というチョンミョンソク牧師の言葉が深く深く胸に刺さる。
義なる生き方をするようにと説き続けるチョンミョンソク牧師の教えに習って生きるならば、人生一生、霊魂永遠まで後悔がないだろう。

野球だけをして生きるならば本当に虚しい。
「野球だけの人生ではない」と謳う人は多いが、どのように生きるのかについて教えてくれる人は多くない。いや本当の意味では皆無に等しい。
人の人生、十人十色だが、生きる意味の根本は、やはり宗教にしか答えがないのだと痛感している…

自分が生きているということの貴さを今一度悟った。
この世に生を受け、今も生きて存在しているということがどれほど大きな神様の恵みなのか、感謝しても感謝しきれない。

彼の霊魂のために切に祈ります。
残されたご家族の今後の生には神様の恵みが満ち溢れますように…
ご冥福を心からお祈り致します…

哀悼の意で綴りました…

野球オンライン練習会

先日、野球部がオンラインで練習会を開催した。
コロナ禍以降、オンラインで様々な活動が行なわれるようになったが、スポーツの練習をオンラインで行なっている人たちはどれくらいいるだろうか?と不図考えた。

当初、「野球の練習がオンラインでできるのだろうか?」と疑ってかかっていた。
しかし、実際にやってみると、工夫次第では、オンラインでも練習が可能だということが分かった。

野球というスポーツは団体競技でありながら、個人競技の側面が強いように感じる。
個人競技の練習となれば、全員が同じ空間に存在していなくても成り立つ。
素振りやシャドウピッチング、ゴロ捕球に至るまで、1人で出来る練習、いや、1人でしなければならない練習は、考えてみると山のように存在する。

人の固定概念というモノは本当に恐ろしい。
「練習=一同に集まってやるもの」という固定概念が活動の幅を大きく狭めてしまっていたことに気が付いた。
(人の宗教というものに対する固定概念も同様に、人生を豊かにするソースを取り入れることをブロックしてしまっている…)

さて、オンラインでの練習は録画という形で残すことが可能である。
同じ時間帯に参加できなかった人たちも、後で見て、同じく練習することができるというメリットがあるのだ。
時空間を超越した野球の練習スタイルは、非常に画期的ではないだろうか?
同じ時空間でしか成り立たないというスポーツ活動の固定概念を取り払い、より多くの人たちが少しでもその活動に参加することができる形を追求していけば、また野球というスポーツの存続問題にも一石を投じることができるだろう。