野球での事故・死から守ってくださった神様 by.DK89

野球での事故は毎年のように報告されている。
恐ろしいことに死亡事故も…

正直、野球をしながら命の危機を感じた経験がある選手は多いことだろう。
悲しいことに、打球が当たったり、デッドボールを受けたりすることによって命を落とした選手がいることは事実だ…

 

今週の主日の御言葉の中でチョンミョンソク牧師は「あなたを死から助けてくださった三位一体(神様、聖霊様、御子)の恵みを悟って愛して生きなさい」と教えてくださった。
神様が命を守ってくださらなかったら、今、野球をすることはできない。
この世に命があるから野球ができるのだ。

過去を省みると、多くの死の危険があったが、奇跡的に命が守られた(=神様が命を守ってくださった)体験をしたのでここに証したい。

 

中学の時、試合でのことだ。
私はランナー1塁の場面で打席に立った。
監督からはバントのサインが出た。
私は投球前から足を開いて完全にピッチャーに正対した。
正直バントに自信はなかったが、不安感と恐怖心を払拭し、絶対に決めるという強い覚悟を持って投球を待った。
当然、避けることなど頭の片隅にもなかった。
(その時、ピッチャーはバントをさせまいとインコースを狙って投げ込もうとしたのだと思う。)

投じられたボールは正対する私の身体のど真ん中に来た。
正対した状態からボールを避けるのは難しい。
ましてや。避ける考えなど微塵もなかった私は、避けたのだが避けきれず、胸部のどこかにボールが直撃した。
私はその場にうずくまった。
激痛と戦った。

だが、幸いにも大きな怪我には至らず、何とか1塁に向かうことができた。
骨が折れたり、心臓震盪を起こしたりしていたかもしれない…
守ってくださった神様に心から感謝したい。

 

高校の時、バッティング練習の準備をしている時だった。
高速回転中のバッティングマシンと接触した。
バッティングマシンを始動した後で位置を調整しようとして動かしたところ、私の肩にローラーが触れたのだった。
高速回転中のローラーに触れたらどうなるだろうか?

「紙一重」とはこういう時に使うのだろう。
触れたその瞬間に逃げた。
(自分が意図して逃げたというよりも、なぜか瞬間身体が反応したのだった。)
練習用ユニフォームの袖はスパッと切らた。
中のアンダーシャツはというと…
擦れた跡がついていた…
もう1cmでも私の側に傾いていたらどうなっていただろうか?
守ってくださった神様に心から心から感謝したい。

 

「不幸中の幸い」という言葉がある。
幸いであったということは、他でもなく、神様が守ってくださったということだ。
神様が大事に至らないように守ってくださったということを私は確信する。

野球ではないが、私は大事故を経験したことがある。
大学の時、対向車が速度超過でスリップして中央線を割って私の車に突っ込んで来た。
ぶつかった瞬間はものすごい衝撃だった。
エアバックは飛び出し、車は廃車になるほどに破損した。
しかし、奇跡的に対向車はバウンド?した。
私の乗っていた座席はかろうじて潰れることなく、軽いむち打ちで済んだのだった。
助手席に友人が乗っていたのだが、彼もまた無事だった。

死の危機から尊い命が守ってくださる神様の恵みに感謝し、生かされた命を尊び、神様を愛して生きていきたいと思う。

手に刻まれた文字

北京オリンピック、女子カーリングの選手が手にメッセージを書いていた。
なぜ手にメッセージを書いていたのか?
その理由は「試合中に忘れないようにするため」だった。

野球選手もグローブに刺繍したり帽子のつばにメッセージを書いたりしている。
いつも自分に言い聞かせるために自分に必要な核心のヒトコトが刻んであるというわけだ。

さて、女子カーリングの選手が手に書いていたメッセージとは「私はいい選手だ。自信がある。楽しもう!」というものだった。
そのメッセージは彼女たちの競技に対する観を表わしていると思う。
「楽しもう!」のヒトコトに集約されるスポーツという文化芸術に対峙する精神は、勝利至上主義に代表されるように、純粋に文化芸術を謳歌できない現代スポーツに親しむすべての人たちに必要となるだろう。

彼女たちが国内予選の決勝の戦いを振り返るドキュメンタリーがあった。
決勝戦は最後の1投で勝敗が決まるという大接戦だった。
その1投を迎えたその瞬間の心境をある選手はこう振り返っていた。

「これで決めれば私たちがオリンピックに行けるが、同時に相手チームはオリンピックに行く道が閉ざされる。争うのが嫌だ。両チームともオリンピックに出れたら良いのに。」

この心情に私は衝撃を受けた。
彼女らは相手と戦うのではなく、あくまでも相手がいる中で自分たちのパフォーマンスをしているのだと続けて話していた。

この時、私は全然悟れていなかった自分に気づいた。
40年あまりも前から、この境地を超えて、キリスト教福音宣教会のスポーツの中でチョンミョンソク牧師は「相手を恋人のように思ってプレーする」ことを実践してきたことを。
競技をする際には誰もが相手のことを争う敵だと考えていると思う。
競技が終わった後に互いに称えあう姿は目にするのだが、競技中にもその気持ちを、その心を持ち続けている選手は多くはないかもしれない。

また、チョンミョンソク牧師はスポーツを通して絶えず神様の喜ばれるプレーをして神様に栄光を帰すことを忘れない。
「芸術を贈り物として下さった創造主に背を向けるな。それは神の前で大きな失礼を冒すことだ。」ともおっしゃったように、くださった神様に感謝し、栄光を帰するプレーをオリンピックを含めもっと見られる日を望む。

神様を信じて愛して生きるある野球少年が「神様、助けてください」と神様により頼むメッセージをバットに刻んでいた。
打席に入る前にはいつも見て祈っていたのだとか。

人それぞれに自分に言い聞かせるメッセージがあると思う。
私は「ひたすら神様」というヒトコトを忘れずにこれからも野球で神様に栄光を帰したいと思う。

春の甲子園・選抜大会に出場できる高校を選抜する問題から考える

最近、高校野球界でホットな話題となっているのが春の甲子園に出場する高校を選抜する問題。

準優勝チームが甲子園に行けず、ベスト4のチームが甲子園に行けるという事実に賛否両論が沸き起こっている。
単純な勝ち負けで決定するわけではなく、選抜だからこそこのようなことが起こりえるわけだなのだが…

「試合で勝ったのに甲子園に行けない…」

この事実に多くの甲子園を目指す球児たちは戸惑いを感じているかもしれない。

勝って甲子園に行くことが至上目的ならば、この事実は憂いでしかない。
しかし、負けても取り組みが評価されて甲子園に行けるならばそれ以上に嬉しいことはないのではないだろうか?
また、勝っても勝ち方に対して審議をかけて問題があるとなれば甲子園に行けないようにするのならば、これもまた球児たちが真に望む甲子園という舞台への挑戦に繋がっていくものになるのではないだろうか?

事実かどうかは分からない。
準優勝チームでは走塁妨害を狙うような練習に取り組んでいたという情報を得た。
ルールの中で行なうことに関しては、誰も何も文句はつけない。
しかし、ルールの範囲内という名目を使って、勝利という欲望を満たすために、ありとあらゆる手段を使っても良い、となるならば、これには待ったをかけなければならないと思う。

どういう野球をするか、野球というスポーツの品に関わる部分は、野球に携わるすべての人たちが責任を持って考えていかなければならないと思う。
チョン・ミョンソク牧師は「文化芸術は神様が人間にくださった最も良い贈り物だ」と教えてくださったが、神様がくださった文化芸術を人間の愚行によって汚すようなことがあっては決していけないのではないか…
人間的に考えても良心の呵責を起こすようなプレーは避けたいものだ…

今回の一件が、野球というスポーツの在り方自体を考えるきっかけになることを心から願う。
そして、野球という神様がくださった素晴らしい文化芸術がより崇高なものへと昇華され、より多くの感動を呼び込む文化芸術になることことを心から願い祈る。